
「神聖ローマ帝国」と「西ローマ帝国」──どちらにも“ローマ”という名前が入っているせいで、「もしかして続き物?」と思ってしまう人も多いかもしれません。でも、実はこのふたつ、名前が似てるだけで中身はまったくの別物なんです。誕生した時代も、支配の仕組みも、置かれた歴史的背景も、それぞれぜんぜん違うんですね。
今回はそんな「似て非なる帝国」、神聖ローマ帝国と西ローマ帝国を徹底比較しながら、その違いをわかりやすくかみ砕いて解説します。
まず大前提として、この2つの帝国が存在していた“時間軸”からして大きくズレているんです。
西ローマ帝国は、古代ローマ帝国が395年に東西分裂したときにできた「西側半分」の国家。首都ラヴェンナ、時にはローマを中心に、ゲルマン民族の侵入と戦いながら476年まで続きました。つまり古代ローマのラストステージといえる存在です。
395年頃の西ローマ帝国の領域
西ローマ帝国は古代ローマの西半を継承する古代国家で、神聖ローマ帝国はその「後継」を自称した中世ヨーロッパのキリスト教的権威国家。
出典:Kaiser&Augstus&Imperator(著者) / CC BY-SA 4.0より
対して神聖ローマ帝国が始まるのは、その約400年後の962年。東フランク王国の王オットー1世がローマ教皇から皇帝冠を受け取ったことで誕生しました。すでに西ローマ帝国は存在せず、“ローマの後継者”を名乗って登場した中世国家だったんです。
時代だけじゃなく、国の仕組みもぜんぜん違いました。
西ローマ帝国は、古代ローマ帝国の伝統を受け継ぎ、皇帝を頂点とした中央集権的な支配が基本。軍事、財政、法制度などが首都に集中し、各属州に総督を派遣して統治していました。
とはいえ末期は内乱とゲルマンの侵入でボロボロになり、中央の力も弱体化。まさに「ローマ世界の終わり」を象徴する存在だったんですね。
これに対して神聖ローマ帝国は、そもそも始まりから統一国家ではなく連合体。数百の諸侯や都市国家、教会領がそれぞれ独立性を持ち、皇帝の権力はかなり限定的でした。むしろ「バラバラなのに帝国を名乗る」不思議な政治体制だったんです。
このふたつの帝国は、存在する目的や理念からして異なっていました。
西ローマ帝国は、あくまでローマ帝国という現実の延長線上にある国家。領土、軍隊、法制度、建築など、すべてにおいて「ローマ的な実体」を備えた本物の帝国だったんです。
その終焉とともに、ヨーロッパでは古代の終わり=中世の始まりが訪れたとも言われます。
一方、神聖ローマ帝国は「ローマ帝国の後継者」を自称しながらも、実際にはまったく別の文化と仕組みを持っていました。むしろ「ローマの正統性」を借りることで、キリスト教世界での政治的権威を高めようとした国家だったのです。
つまり、神聖ローマ帝国はローマ帝国の実質的な続きではなく、精神的な看板を掲げた別物だったというわけですね。