神聖ローマ王朝史「ヴィッテルスバッハ朝」とは─「狂気」の短命政権

ヴィッテルスバッハ朝とは

ヴィッテルスバッハ朝は、1328年にルートヴィヒ4世(バイエルン公)が皇帝に即位して成立した神聖ローマ帝国の王朝。彼は教皇と対立しながら自ら戴冠し、皇帝権の独立性を主張したが、帝国諸侯や教会との対立が絶えず、統治は不安定だった。王朝は短命で、ルートヴィヒの死後まもなく断絶。しかしヴィッテルスバッハ家自体はその後もバイエルン選帝侯として存続し、帝国政治に影響力を持ち続けた。帝位を通じて地方権力の強化を図った一例といえる。

神聖ローマ王朝史「ヴィッテルスバッハ朝」とは─「狂気」の短命政権

神聖ローマ帝国の皇帝といえばハプスブルク家が圧倒的に知られていますが、実はその長い歴史の中で、たった一度だけハプスブルク家以外の家系が皇帝位を奪った瞬間がありました。その一族こそ、南ドイツ・バイエルンを支配していたヴィッテルスバッハ家です。


ほんの一時期ながら、神聖ローマ帝国の頂点に立ったヴィッテルスバッハ家。今回はその短くも濃密な治世と、その後の影響、さらには現代史との意外な関係まで、詳しく解説していきます。



ヴィッテルスバッハ朝の治世

ハプスブルク家が皇帝位をほぼ独占していた神聖ローマ帝国において、ヴィッテルスバッハ家が割り込んできたのは14世紀のこと。


ルートヴィヒ4世が皇帝に即位

その主人公はルートヴィヒ4世(在位:1328〜1347)。選挙でハプスブルク家と争い、1314年にローマ王に選出されますが、ハプスブルク側も対立候補を立てたため、帝国は二重王の混乱に突入します。


結局、1322年のミュールドルフの戦いで勝利し、彼が単独王として認められることに。そして1328年、ローマ教皇の承認なしに自力で皇帝戴冠を果たします。


“教皇抜き”の皇帝即位

この皇帝戴冠は異例中の異例で、ローマ教皇が彼を支持していなかったにもかかわらず、自力でローマに入り戴冠式を挙行。これは当時としては帝国の独立性を主張する非常にラディカルな行動でした。


つまり、ルートヴィヒ4世は「皇帝は教皇に選ばれるものではない、帝国の意思によって決まるべきだ」という“世俗主義的”立場を突きつけた最初の皇帝だったとも言えるのです。


治世の評価は賛否両論

ルートヴィヒ4世は帝国の拡張を試み、イタリア政策も積極的でしたが、教皇庁との対立、ドイツ内の諸侯との軋轢、さらには皇帝権力の行使をめぐる混乱などが重なり、治世の評価は「混乱の時代」とも言われがちです。


でもその一方で、皇帝位の“教皇からの独立”を明確にしたという点では、神聖ローマ帝国の近代的主権の先駆けだったとも評価できるわけです。


「ヴィッテルスバッハの狂気」とは

実はこの家系、「狂気」と結びつけられることが多いのをご存じでしょうか?「ヴィッテルスバッハの狂気」とは、神聖ローマ帝国の時代を超えて語られる名門ゆえの逸話群でもあります。


ルートヴィヒ2世の逸脱

たとえば19世紀バイエルン王ルートヴィヒ2世は、芸術を愛するロマンチストでありながら、現実政治から離れ、ノイシュヴァンシュタイン城などの“夢の城”建設にのめり込みました。晩年には「狂王」として幽閉され、謎の死を遂げます。


この逸話が有名になったことで、「ヴィッテルスバッハ家には狂気の血が流れている」と囁かれるようになったんです。


精神疾患の系譜?

この家系では、精神的な不調や不可解な行動を記録された人物が複数確認されていて、たとえばルートヴィヒ2世の弟オットーも精神疾患により国政から退きました。


こうした背景から、「狂気=ヴィッテルスバッハ家の宿命」などと語られることが多くなったわけです。


お待たせしました!それでは後半、ヴィッテルスバッハ家の子孫たちの動向や、ナチスとの関係について、神聖ローマ帝国のその後を追いながら見ていきましょう。


ヴィッテルスバッハ家の子孫

皇帝位からは退いたヴィッテルスバッハ家ですが、その後もドイツ有数の名門貴族としてしぶとく生き残り、19世紀にはバイエルン王国の王家として再登場します。


バイエルン王国の建国

1806年、神聖ローマ帝国がナポレオンによって解体されると、南ドイツのバイエルン選帝侯カール・テオドールが「バイエルン王」を名乗り、ここにヴィッテルスバッハ家による独立王国が誕生します。


つまり、神聖ローマ皇帝ではなくなったものの、国家元首としての地位は別ルートで確保されたというわけです。


文化への貢献がめざましい

バイエルン王国時代のヴィッテルスバッハ家は、芸術・建築・音楽への支援を惜しまず、ワーグナーのパトロンになったり、オペラ劇場や城館を建てたりと、文化国家としてのバイエルンを形成していきました。


とくに上でも出てきたルートヴィヒ2世は、ロマン主義建築の象徴的存在でもあり、いまだにドイツ観光の目玉になっているほどです。


現在も家系は存続中

王政は第一次世界大戦後に廃止されましたが、ヴィッテルスバッハ家自体は今も存続しています。現在の家長はフランツ・フォン・バイエルンで、彼はバイエルン州では今も「殿下」として敬意を払われる存在です。


ヴィッテルスバッハ家とナチス

さて、20世紀の暗黒時代に突入すると、この名門貴族とナチスとの関係もまた、非常に複雑なものになっていきます。


王政復古に期待された存在

ナチスが政権を取る前、ミュンヘンやバイエルンでは「ヴィッテルスバッハ家による王政復古」を望む声が一部にありました。ナチスが勢力を伸ばす前は、バイエルン州内でこの家系は反共・保守派の象徴として、一定の政治的影響力を持っていたんです。


ナチスとは対立関係に

しかし、ナチスが政権を掌握すると、この家系は体制にとって邪魔な存在と見なされるようになります。とくに当時の家長ループレヒト王子は、反ナチ的な態度を隠さず、公然とヒトラーを批判していました。


その結果、ヴィッテルスバッハ家の多くのメンバーは亡命監視対象とされ、一部は拘束されるなど、体制からの弾圧を受けることになります。


ナチスに利用されなかった希少な王家

戦後、ヴィッテルスバッハ家がナチスと一切の協調関係を持たなかったことは評価され、現在でも「名誉ある旧王家」として一定の社会的信用を保ち続けています。これは他の一部旧王家(たとえばホーエンツォレルン家など)とは大きく異なるポイントなんですね。


「ヴィッテルスバッハ家の特徴」まとめ
  • 治世:1328年〜1347年、ルートヴィヒ4世がハプスブルク家に代わって皇帝に。
  • 狂気のイメージ:ルートヴィヒ2世などが残した逸話から“狂気の王家”とも呼ばれる。
  • その後の歴史:バイエルン王国を建国し、文化国家として発展。
  • ナチスとの関係:ヒトラーと対立し、迫害を受けた反体制的王家だった。
  • 現在:王政は消滅したが、家系は健在で歴史的敬意を集めている。