ヴィッテルスバッハ朝時代の神聖ローマ帝国

ヴィッテルスバッハ朝――この王朝は、神聖ローマ帝国の中で「一瞬だけ主役になった名門家系」とも言える存在です。
ルクセンブルク朝が一時的に途切れたタイミングで登場したんですが、「本気で帝国を変えるぞ!」と燃えたわりに、実際は権力闘争とバランス調整に振り回され続けたちょっと切ない時代でもありました。
でも、皇帝ルートからは外れたあとも、彼らはバイエルン公国を拠点に神聖ローマ帝国の中核勢力として存在感を放ち続けるんです。
この記事では、ヴィッテルスバッハ家が帝位に就いた背景と、その短いけどインパクトある活躍を見ていきます!

 

 

ヴィッテルスバッハ朝ってどんな王朝?

バイエルンを拠点にした名門貴族ヴィッテルスバッハ家が、神聖ローマ皇帝の座を手にしたのはルクセンブルク朝の空白を埋めるためでした。

 

ルートヴィヒ4世=唯一のヴィッテルスバッハ皇帝

1328年、皇帝に即位したルートヴィヒ4世(在位:1314–1347)が、ヴィッテルスバッハ家出身の唯一の神聖ローマ皇帝です。
当時の帝国では、皇帝選出に選帝侯たちの思惑が強く反映されており、ルートヴィヒもルクセンブルク家の対抗馬として選ばれた経緯があります。

 

皇帝選出からいきなり“ダブル当選”!?

実はこのとき、選帝侯たちはルートヴィヒとボヘミア王ヨハンの息子カール(後のカール4世)の両方を皇帝に選出してしまいます。
つまり、最初から皇帝が2人いる状態だったんです。
この“ダブル皇帝”のゴタゴタが、帝国の分裂と教皇との対立をさらに複雑にしていきます。

 

ルートヴィヒ4世の治世とその苦悩

ルートヴィヒは自分の権威を確立するために、教皇に頼らず自力で皇帝戴冠を果たすという異例の行動に出ました。
でもこれがさらなる混乱の引き金となり、教皇派との関係はどんどん悪化していきます。

 

教皇抜きで戴冠=強気の裏返し

ルートヴィヒは1328年、自らローマへ赴いて自力で皇帝戴冠を断行。
これはある意味で「皇帝に教皇の承認はいらない」と言ったも同然で、教皇庁との正面衝突を招きます。
当時の教皇ヨハネス22世はこれに猛反発し、ルートヴィヒを破門しました。

 

“皇帝の正統性”って誰が決めるの?

この一件は、

 

皇帝の権威は神から直接与えられるのか、それとも教皇が承認して初めて正当化されるのか

 

という中世ヨーロッパの根源的なテーマを改めて突きつけました。
ルートヴィヒの行動は、皇帝と教皇の関係を揺るがす一石となったんです。

 

ヴィッテルスバッハ朝の退場とその後

ルートヴィヒ4世は改革的な政策や都市支援にも積極的でしたが、諸侯の支持を得きれず、最終的にはルクセンブルク家のカール4世に皇帝位を奪われ、ヴィッテルスバッハ家は帝位から退くことになります

 

バイエルンでの基盤は強固に

とはいえ、ヴィッテルスバッハ家はバイエルンにおいて強力な領邦支配を維持し続け、以後も選帝侯として帝国に大きな影響力を持ち続けます。
特に17世紀以降の三十年戦争期などでは、再び帝国の中心に立つこともあるんです。

 

“1回きり”でもインパクトは大

彼らの皇帝時代は短かったものの、「教皇の権威を相対化する」という行動は、後の宗教改革や国家主権のあり方にも大きな布石となりました。
つまり、ルートヴィヒ4世の存在感は意外と深く、長く影響を残しているんです。

 

ヴィッテルスバッハ朝の神聖ローマ帝国は、まさに短くても濃い1ページ
教皇に頼らず、自力で道を切り開こうとしたルートヴィヒ4世の姿には、“皇帝ってなんなんだろう?”という問いがぎっしり詰まっているんです。
一度しか皇帝を出さなかったけど、その一度でしっかり爪痕を残した王朝でした。