

中世ヨーロッパの恐怖体験といえば──やっぱり魔女狩りですよね。なかでも特に「過熱していた」とされるのが、あの神聖ローマ帝国。火あぶりや拷問の話が多く残っているのも、この帝国領内が中心なんです。でも…なぜここまで激しかったのでしょうか?
この記事では、神聖ローマ帝国という特殊な舞台装置のなかで、なぜ魔女狩りが突出して多発したのか、その社会的・政治的・宗教的背景をわかりやすくかみ砕いて解説します。
神聖ローマ帝国では中央集権的な法の支配が行き届かず、各地の領邦や都市が思い思いの裁き方をしていました。
神聖ローマ帝国は巨大な連邦制国家。その中には何百という小国・都市国家が存在し、司法権もそれぞれに委ねられていました。結果として、ある地方では魔女が処刑され、別の地方では無罪になるといった裁判基準のバラつきが生じていたのです。
領主や都市の支配者たちは、自分の領土の安定を図るために、時に「民衆の不安を利用して支持を得よう」としました。魔女狩りはその格好の手段。民衆の恐怖や不満を「魔女」に向けさせることで、支配体制を守ろうとしたんですね。
宗教改革の嵐が吹き荒れる中で、神聖ローマ帝国はまさに「信仰の戦場」と化していました。
ルターによる宗教改革以降、神聖ローマ帝国はカトリックとプロテスタントが激しく争う舞台になりました。両派とも「信仰の正しさ」を強調するあまり、異端や悪魔と結びつけられやすい「魔女」に対して強硬な態度を取りがちだったのです。
キリスト教の正統教義だけでなく、各地には古い民間信仰や迷信が根強く残っていました。収穫の失敗、疫病の流行、子供の病死──そうした災いの原因を、目に見えない「呪い」や「悪魔の手先」に求める動きが頻発したのです。
活版印刷の登場は、啓蒙だけでなく「恐怖の連鎖」も生み出してしまいました。
15世紀後半に出版された『魔女に与える鉄槌』は、悪魔と魔女の結びつきを論じ、具体的な取り締まり手順を示すもの。この書物は神聖ローマ帝国内で爆発的に普及し、各地の司祭や裁判官の“教科書”となってしまったんですね。
一度でも「魔女狩り」が行われると、噂や恐怖が急速に広まりました。「あの村で魔女が処刑された」というニュースが、別の地域の不安を煽り、さらに別の魔女狩りを生む…という負のスパイラルが起きていたわけです。
疫病、戦争、飢饉…神聖ローマ帝国は災難続きでした。そんな中、人々は「犯人」を求めるようになったのです。
17世紀の三十年戦争では、帝国の多くの地域が焼き払われ、人口も激減。極端な困窮の中で、人々は心理的に追い詰められ、「魔女」への敵意が噴き出しました。生贄的な意味合いが強かったのです。
魔女狩りの犠牲者の多くは、貧しい高齢女性や社会から孤立した人物でした。「あの人、ちょっと変わってる」といった偏見が命取りになる、そんな空気が広がっていたんですね。