
神聖ローマ帝国には、じつは多くのユダヤ人コミュニティが存在していました。
そして彼らの立場はとても特殊――一言で言えば「保護されていたけど、差別もされていた」んです。
皇帝に守られながらも、差別的な税や法律に苦しみ、時には暴力や追放の対象にもなる。
この記事では、そんな神聖ローマ帝国におけるユダヤ人の立場について、時代を追いながら解説していきます!
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神聖ローマ帝国において、ユダヤ人は決して“市民”として平等に扱われていたわけではありませんが、それでも完全に無法な存在でもありませんでした。むしろ皇帝によって保護された存在だったんです。
中世のユダヤ人は、法律上「皇帝直属の保護対象」として扱われることがありました。
これをカイザーユーデン(Kaiserjuden)とも呼び、皇帝の庇護を受けることで命と財産を守っていたんです。
ただしこれは、皇帝に特別な税金を納める義務恣意的な扱いを受けるリスクの裏返しでもありました。
ユダヤ人は「帝国臣民」として登録されながらも、 キリスト教徒とは全く異なる扱いを受け、
などが禁止されるケースも多く、“保護されているが平等ではない”という微妙な位置に置かれていました。
宗教的制限から職業選択に限りがあったユダヤ人たちは、神聖ローマ帝国内で特に金融・商業・中継貿易などの分野で活躍していました。
カトリック教会では、長らく「利子を取ること」が禁止されていたため、ユダヤ人が融資業・両替商・質屋などを担うようになりました。
これによって多くの都市では、ユダヤ人が経済の“金融インフラ”として不可欠な存在になります。
ユダヤ人は都市の商人や貴族にとって金融面でのパートナーでもありましたが、一方で「金貸し=強欲」という偏見が広がり、反ユダヤ的な感情も根強く存在しました。
特に経済が悪化すると、「借金返したくないからユダヤ人を追い出そう」みたいな暴動や陰謀論が噴き出すことも……。
ユダヤ人の保護は安定的ではなく、政治・宗教・社会不安が重なると暴力や迫害にさらされることがありました。
特に第一回十字軍(1096年)では、ライン川沿いの都市(マインツ、ヴォルムス、ケルンなど)で、「異教徒退治」と称してユダヤ人コミュニティが襲撃され、多くの命が奪われました。
皇帝や一部の司教が保護を試みることもありましたが、群衆の暴力には抗いきれない場合も多かったんです。
14世紀の黒死病(ペスト)の大流行時には、「ユダヤ人が井戸に毒を入れた」とするデマが広まり、各地で集団虐殺や追放が相次ぎました。保護されていたはずのユダヤ人が、一夜にして命を奪われる対象になる悲劇が繰り返されたのです。
過酷な状況の中でも、ユダヤ人たちは独自の信仰・教育・ネットワークを保ちながら、神聖ローマ帝国の中に文化的にも経済的にも重要な足跡を残しました。
多くの都市では、ユダヤ人が壁や門で囲まれた“ユダヤ街(ゲットー)”に居住させられました。
しかしその内部では、ラビを中心とした自治・教育・宗教活動が営まれていて、中世ヨーロッパの中でもかなり自立した少数派コミュニティを形成していたんです。
たとえばラビ・マイモニデスの影響を受けた学問や、中世末期のユダヤ教神秘主義(カバラ)など、神聖ローマ帝国においても知的・宗教的なユダヤ文化は静かに発展し続けました。
神聖ローマ帝国のユダヤ人たちは、“必要とされながら排除される”という矛盾の中で生きていました。
保護と差別が同居する世界の中で、それでも信仰と学びを絶やさず、独自のアイデンティティを守り抜いた――そんな彼らの姿は、帝国のもう一つの歴史の裏面とも言えるんです。