

神聖ローマ帝国は多民族・多宗派の巨大な“ゆるやか連邦”でしたが、その中でユダヤ人がどんな存在だったか──それは時代や場所によって大きく異なります。
あるときは経済を支える重要な存在として保護され、またあるときはスケープゴートとして迫害される……そんな“光と影”の間を生き抜いたユダヤ人たちの立場の変遷を、今回は神聖ローマ帝国という舞台でたどってみましょう。
神聖ローマ帝国におけるユダヤ人の法的な位置づけは、独特なものでした。
中世のユダヤ人たちは、一般の都市や諸侯の支配下ではなく、皇帝の“直轄被保護民”(Kammerknechte)という位置づけで扱われていました。これはつまり「皇帝の財産」として法的に保護されている、という特別な身分だったのです。
この仕組みによって、地方の暴力や追放からある程度守られる反面、特別税や制限も課せられました。
皇帝はユダヤ人を保護する代わりに、高額な保護税・入市料・特許料を徴収しました。つまり法的には守られていても、その実態は“税を払って存在を認められている”という非常に不安定な立場だったのです。
保護者が変われば立場も変わる──まさに“宙ぶらりんの法的位置”だったわけです。
ユダヤ人の生活は、決して平穏ではありませんでした。とくに中世後期から近世初頭にかけては、たびたび暴力的な迫害にさらされます。
第一回十字軍(1096年)では、ライン川流域のユダヤ人コミュニティが異教徒として虐殺される事件が相次ぎました。さらに黒死病(1348〜)の流行時には「井戸に毒を入れたのはユダヤ人だ」といった根拠のない噂が広まり、数万人規模の虐殺が発生したのです。
いわば、“社会の不安”が爆発するとき、真っ先にその怒りの矛先が向けられる存在だったのです。
多くの都市では、ユダヤ人が追放された後、経済の停滞を理由に再び受け入れられる──という入退場の繰り返しが起こっていました。たとえばウィーンやレーゲンスブルクなどは、15世紀にはユダヤ人を追放したものの、16世紀には再び商人として戻ってきたという事例もあります。
要するに「必要なときだけ頼られ、不要になれば排除される」存在だったんですね。
自由な職業選択ができなかったユダヤ人たちは、限られた分野で活躍していくことになります。
キリスト教では利息を取る商売(高利貸し)はタブー視されていたため、それを担ったのがユダヤ人の金融業者たちでした。中には貴族や皇帝に融資を行うほどの存在も。
また都市部では宝石商・金細工職人・両替商としての役割を担い、中世後期の貨幣経済に大きな影響を与えました。
ラテン語・ヘブライ語・アラビア語に通じたユダヤ人学者たちは、イスラーム世界から伝わった医学・天文学・占星術の知識をラテン語世界に紹介する役割も果たしています。こうした知識階級のユダヤ人は、ときに皇帝の侍医や宮廷占星術師として重宝されることもありました。
17世紀以降になると、ユダヤ人に対する見方や制度も少しずつ変わっていきます。
18世紀の啓蒙時代には、宗教より理性と市民権を重視する考えが広がり、一部のユダヤ人に大学入学や都市居住の自由が与えられるようになります。モーゼス・メンデルスゾーンらがその代表です。
ただし、それはあくまで“近代の入り口”であり、社会的偏見は依然として根強く残っていました。
1806年に神聖ローマ帝国が崩壊し、ナポレオン体制や諸邦が新たな法制度を導入すると、ユダヤ人の身分も国家単位で再定義されることになります。以降は「ユダヤ人=国民」として扱うか、「依然として別枠」とするかで、ドイツ各地の政策は大きく分かれていきます。