

中世ヨーロッパの中で“千年帝国”と呼ばれた神聖ローマ帝国──その名からすると、まるでひとつの巨大なローマ的国家を想像してしまいそうですが、実際はかなり事情が違いました。なにせこの帝国、名前に反して「一枚岩」どころか、民族の寄せ集め、地域色バラバラの“多民族パッチワーク帝国”だったんです。
今回の記事では、神聖ローマ帝国という一見まとまって見える存在が、じつはどれだけ多様な民族と文化に支えられていたかを、具体的な民族構成とその特徴にフォーカスしながら、わかりやすくかみ砕いて解説します。
神聖ローマ帝国といえば「ドイツの前身」ってイメージが強いですが…?
たしかに中世以降の神聖ローマ帝国では、政治の中心は主に現在のドイツ中部から南部にかけて置かれていました。ハプスブルク家などを中心にドイツ語を話す諸侯たちが勢力を拡大し、帝国議会や選帝侯の多くもドイツ語圏の出身者でした。
とはいえ、それはあくまで“中核”の話であって、「ドイツ=帝国のすべて」では決してなかったのです。
神聖ローマ帝国の理念は普遍的なキリスト教世界の守護者であって、民族国家ではありませんでした。だからこそ、皇帝位を担った家系がスイスだったりオーストリアだったり、フランス寄りだったりと、その都度バラバラでもOKだったわけですね。
神聖ローマ帝国は中央ヨーロッパに拠点を持ちながらも、西や南には異なる文化・民族が存在していました。
現在のフランス東部(アルザスやロレーヌ)は、中世を通じて帝国の一部でした。そこに暮らしていたのはフランス語系の人々で、文化もフランス寄り。けれど、政治的には帝国に属し、帝国議会にも代表を送っていました。
つまり、「言葉はフランス、所属はドイツ」みたいなグラデーション状態だったんです。
また、帝国の南端にはロンバルディアやトスカーナといったイタリア語圏の地域も含まれていました。ここはかつてローマ帝国の中心地であり、皇帝たちはここを重視してイタリア遠征を繰り返しました。でもその結果、教皇と争うことも多く、帝国支配はだんだんと弱まっていきます。
それでも、皇帝は形式上「イタリア王」も兼ねていたほど、イタリアの地は重要視されていたんですね。
さらに東に目を向けると、また違った顔ぶれが見えてきます。
現在のチェコにあたる地域、ボヘミア王国は神聖ローマ帝国内でも強い自治権を持ち、選帝侯の一角にも加えられていました。ここに住んでいたのは西スラヴ系のチェコ人(ボヘミア人)で、言語も文化もドイツとは異なる独自の世界を築いていました。
それでも皇帝に忠誠を誓い、帝国の枠組みの中で一定の地位を保っていたのが特徴です。
13世紀以降、ハンガリー王国も神聖ローマ帝国との関係を深めました。オーストリアやクロアチアとともに、バルカンの玄関口をなしていたマジャール系住民は、ハプスブルク家がハンガリー王位を兼ねるようになってから、帝国に間接的に組み込まれていくことになります。
ハンガリーは帝国の正式な構成国ではないけれど、「皇帝=ハンガリー王」という図式がしばしば現れることになるのです。
このように神聖ローマ帝国は、まさに「ひとつの国家」というより「多民族のゆるやかな共同体」でした。
帝国内ではドイツ語・ラテン語・イタリア語・チェコ語・フランス語など、さまざまな言語が飛び交い、法律や通貨も地域ごとに違っていました。共通していたのは皇帝への名目的な忠誠くらい。だけど、その緩やかな関係こそが帝国の“柔軟さ”でもありました。
神聖ローマ帝国のこの「緩い連帯構造」は、現代のヨーロッパ連合(EU)にも似ているとよく言われます。共通の枠組みの中で、それぞれの国や文化が自立している…まさに“帝国的な多様性”の再来ともいえるのです。