
ズップリンブルク朝――名前だけ聞くと「あれ?そんな王朝あったっけ?」と思う人もいるかもしれませんね。
実際、この王朝は皇帝1人きり・たった1代しか続かなかった、ちょっとレアな存在なんです。
でもこの短い期間に、帝国は新たなバトルの火種を抱えることになり、のちのホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の血で血を洗う対立へとつながっていくことになります。
今回はそんなズップリンブルク朝時代の神聖ローマ帝国にフォーカスして、何が起きたのかを見ていきましょう!
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ズップリンブルク朝は、ザーリアー朝断絶後に即位したロタール3世(在位:1125–1137)による、 神聖ローマ帝国の中でも最も短命な王朝です。
でもその短さに反して、帝国の将来に大きな影響を与える選択が次々と行われました。
ロタール3世はザーリアー家と血縁がないにもかかわらず、諸侯たちの支持を集めて皇帝に選出されました。
このことからも、神聖ローマ帝国では「選挙制による皇帝選出」がより強調された時期だったと言えます。
彼自身はズップリンブルク家という地方貴族の出身で、大きな領地や名門の後ろ盾はありませんでした。
ロタールは「この人なら皇帝になっても権力を振りかざさず、うまくやってくれそう」と期待されて選ばれた面が強く、 つまり“強すぎないからこそ選ばれた皇帝”だったんです。
それは逆に、皇帝がもはや絶対的な存在ではなく、諸侯との協調路線が前提になりつつある証でもありました。
短い治世だったとはいえ、ロタール3世の時代には帝国内の勢力図が大きく動く出来事がいくつも起きました。
ロタール3世は、イタリア遠征などでローマ教皇と協調し、教会との友好関係を強める政策をとりました。
これはザーリアー朝の対立路線とは正反対で、教皇の支持を得ることで皇帝位の正統性を補強しようとしたんですね。
ロタールは、自分の娘を当時の有力者ハインリヒ10世(ヴェルフ家)に嫁がせて、「将来的に帝国を任せられる後継者」として扱いました。
ところが、ロタールが死ぬと選帝侯たちはハインリヒ10世ではなく、ホーエンシュタウフェン家のコンラート3世を皇帝に選出!
この決定が、ヴェルフ家 vs シュタウフェン家の超長期抗争を生むことになるのです。
ズップリンブルク朝が続かなかったのは、単純に「後継者が選ばれなかった」から。
でもその背景には、帝国における“選挙の原則”と“世襲の壁”という複雑な力学がありました。
ハインリヒ10世は名実ともに有力者でしたが、選帝侯たちは彼が強すぎると見て警戒しました。
その結果、よりバランスがとれる(と思われた)コンラート3世(ホーエンシュタウフェン家)が選ばれ、ズップリンブルク家の血統はここで皇帝の座から完全に外れることになります。
ロタール3世の皇帝位を“ヴェルフ家が継げなかった”ことが不満の種になり、これが後の皇帝と反皇帝の分裂、イタリアでの教皇派と皇帝派の対立など、神聖ローマ帝国の長い分裂と戦争の始まりへとつながっていくのです。
ズップリンブルク朝は、たった1代で終わったけれど、「皇帝って誰が決めるの?」「世襲ってアリなの?」という根本的な問いを帝国に突きつけた時代でもありました。
その後のヴェルフvsシュタウフェンの大抗争も、この時代の“選ばれなかったこと”への反発から始まってるんです。
短命だけど、めちゃくちゃ“種まき”の多い王朝だったんですよ。