神聖ローマ帝国とベルギーの関係─地理的には近くても…

神聖ローマ帝国とベルギーの関係

神聖ローマ帝国とベルギー地域は中世からつながりが深かったが、15世紀以降ハプスブルク家の支配下に入った。特にブルゴーニュ公国がハプスブルクに継承され、ベルギーは帝国内の重要な経済・政治拠点となった。スペイン継承戦争後、ベルギーはスペイン・オーストリア領として分割され、帝国の影響力が変動した。

地理的には近くても…神聖ローマ帝国とベルギーの関係

中世から近世にかけて、ヨーロッパ地図の上ではベルギーとドイツはすぐ隣。でも、文化も言語も制度もけっこう違ってる…なぜ? その理由をさかのぼっていくと、神聖ローマ帝国とベルギーの“微妙な距離感”が見えてくるんです。政治的には帝国の一部、でも実際にはかなり独自に動いていたベルギーの地域。今回は、その歴史的な関係をわかりやすくひも解いてみましょう!



ベルギー地域は帝国の西端だった

現在のベルギーにあたる地域は、中世から神聖ローマ帝国の西のはしっこに含まれていました。


ロタリンギアの分割から始まる

843年のヴェルダン条約でカロリング帝国が三分割されると、現在のベルギーは中部フランク(ロタリンギア)に組み込まれます。その後、東フランク(のちの神聖ローマ帝国)に吸収されていきました。


フランドル・ブラバントなどの諸侯領

この地域にはフランドル伯領・ブラバント公国・ナミュール伯領など、さまざまな諸侯領が存在。神聖ローマ帝国に名目的には属していたものの、実際にはフランス文化圏に近く、半独立状態で動いていました。


“名ばかりの帝国支配”

神聖ローマ帝国は分権的な国家だったため、中央からベルギーを強くコントロールする力はほとんどありませんでした。事実上、地域ごとにフランス・イングランドと結びつくほうが多かったのです。


中世後期~近世はハプスブルクが支配

帝国としての支配は弱かったベルギーですが、ハプスブルク家がこの地域を掌握することで、ふたたび神聖ローマ帝国とのつながりが強まります。


ブルゴーニュ継承とハプスブルク家

15世紀後半、ブルゴーニュ公国の女公マリーがハプスブルク家のマクシミリアン1世と結婚。これによって、ベルギー地域も含むネーデルラント諸州がハプスブルク家の所領になります。


カール5世による中央集権化

神聖ローマ皇帝カール5世(1500 - 1558)はベルギー・オランダ・ルクセンブルクの諸州をネーデルラント17州として統一的に支配。ブリュッセルを政治の中心に据え、帝国とベルギーの一体化を試みました。


でもフランス文化圏は根強かった

とはいえ、ベルギー南部はロマンス語圏(ワロン地域)であり、フランスの言語・文化・宗教の影響が濃厚。これがのちの“南部ネーデルラント=ベルギー”の独自性を形づくることになります。


オランダと分離して“残された帝国領”に

16世紀後半、ネーデルラントで勃発した独立戦争は、オランダとベルギーの運命を大きく分けました。


オランダ北部が独立

1568年、ネーデルラント北部はスペイン=ハプスブルクの支配に反発し、八十年戦争を開始。結果としてオランダ共和国が独立します。


ベルギー南部は“残留”

一方、現在のベルギー南部はスペイン支配下にとどまり、南ネーデルラントと呼ばれるようになります。これは形式上、神聖ローマ帝国領として扱われていました。


ヴェストファリア条約でも地位は保留

1648年のヴェストファリア条約では、オランダ独立が正式に承認された一方、ベルギー地域はスペイン=ハプスブルクの所領かつ帝国の一部として位置づけられ、政治的には「帝国にとどまった」格好になったんです。


「神聖ローマ帝国とベルギーの関係」まとめ
  • ベルギー地域は神聖ローマ帝国の西端に属していた:ロタリンギアから継承された地域だった。
  • ハプスブルク家の継承で帝国との結びつきが強化:ネーデルラント17州の一部として支配を受けた。
  • オランダ独立後も“残された帝国領”となった:南ネーデルラントとして帝国にとどまり続けた。