
中世から近世にかけて、ヨーロッパ地図の上ではベルギーとドイツはすぐ隣。でも、文化も言語も制度もけっこう違ってる…なぜ? その理由をさかのぼっていくと、神聖ローマ帝国とベルギーの“微妙な距離感”が見えてくるんです。政治的には帝国の一部、でも実際にはかなり独自に動いていたベルギーの地域。今回は、その歴史的な関係をわかりやすくひも解いてみましょう!
現在のベルギーにあたる地域は、中世から神聖ローマ帝国の西のはしっこに含まれていました。
843年のヴェルダン条約でカロリング帝国が三分割されると、現在のベルギーは中部フランク(ロタリンギア)に組み込まれます。その後、東フランク(のちの神聖ローマ帝国)に吸収されていきました。
この地域にはフランドル伯領・ブラバント公国・ナミュール伯領など、さまざまな諸侯領が存在。神聖ローマ帝国に名目的には属していたものの、実際にはフランス文化圏に近く、半独立状態で動いていました。
神聖ローマ帝国は分権的な国家だったため、中央からベルギーを強くコントロールする力はほとんどありませんでした。事実上、地域ごとにフランス・イングランドと結びつくほうが多かったのです。
帝国としての支配は弱かったベルギーですが、ハプスブルク家がこの地域を掌握することで、ふたたび神聖ローマ帝国とのつながりが強まります。
15世紀後半、ブルゴーニュ公国の女公マリーがハプスブルク家のマクシミリアン1世と結婚。これによって、ベルギー地域も含むネーデルラント諸州がハプスブルク家の所領になります。
神聖ローマ皇帝カール5世(1500 - 1558)はベルギー・オランダ・ルクセンブルクの諸州をネーデルラント17州として統一的に支配。ブリュッセルを政治の中心に据え、帝国とベルギーの一体化を試みました。
とはいえ、ベルギー南部はロマンス語圏(ワロン地域)であり、フランスの言語・文化・宗教の影響が濃厚。これがのちの“南部ネーデルラント=ベルギー”の独自性を形づくることになります。
16世紀後半、ネーデルラントで勃発した独立戦争は、オランダとベルギーの運命を大きく分けました。
1568年、ネーデルラント北部はスペイン=ハプスブルクの支配に反発し、八十年戦争を開始。結果としてオランダ共和国が独立します。
一方、現在のベルギー南部はスペイン支配下にとどまり、南ネーデルラントと呼ばれるようになります。これは形式上、神聖ローマ帝国領として扱われていました。
1648年のヴェストファリア条約では、オランダ独立が正式に承認された一方、ベルギー地域はスペイン=ハプスブルクの所領かつ帝国の一部として位置づけられ、政治的には「帝国にとどまった」格好になったんです。