神聖ローマ帝国が「ローマじゃない」といわれる理由

「ローマじゃない」神聖ローマ帝国

神聖ローマ帝国が「ローマじゃない」といわれるのは、地理的にも文化的にも古代ローマ帝国とは別物だったからである。帝国の中心はドイツ語圏にあり、ローマ市を実際に支配することもなかった。また言語や行政制度もラテン的伝統から大きく逸脱しており、ローマの継承を名乗りながら、その実態はローマ的ではなかった点で批判を受ける。

神聖ローマ帝国が「ローマじゃない」といわれる理由

神聖ローマ帝国──名前に「ローマ」ってついていると、「あの古代ローマ帝国の後継なのかな?」って思ってしまいますよね。実際、中世の人たちもその“イメージ”に乗っかる形でこの名前を名乗ったわけですが、近代以降の歴史家からはこんなツッコミをされがちなんです。


「いや、それローマちゃうやん」と。


この記事では、なぜ神聖ローマ帝国が「ローマじゃない」と言われるのか、その由来・地理・文化・政治の違いを3つの視点からわかりやすくひもといていきます。



名前にある「ローマ」の由来

まずは、なぜこの帝国が「ローマ」と名乗ったのかを確認してみましょう。


古代ローマ帝国の正統を継ぐという自負

8世紀末、フランク王国のカール大帝が西暦800年にローマ教皇から皇帝冠を授けられたことが、神聖ローマ帝国のはじまり。これは「西ローマ帝国の継承者」としての立場を主張するための政治的儀式だったのです。


帝国の普遍性を“ローマ”に重ねた

「ローマ」という言葉は当時、ただの地名ではなく、秩序・法・キリスト教世界の中心といった象徴的な意味をもっていました。つまり神聖ローマ帝国は、「古代ローマのような普遍的帝国ですよ」と言いたかったわけですね。


でも実際は「ローマじゃなかった」

ところが、その中身をよく見ると、古代ローマとはまるで別物だったんです。


首都も中心地もローマじゃない

神聖ローマ帝国の中枢はドイツ中部からオーストリア、ボヘミア(現チェコ)など。肝心のローマ(イタリア)自体は一時的に支配下に置いたこともあったものの、政治の中心地になったことは一度もありませんでした。


ローマ市民文化との断絶

古代ローマの政治制度(元老院、法体系)、都市文化、公用語であるラテン語による統治──こうしたものは神聖ローマ帝国ではすでに形骸化。言語も風俗も全く異なり、ローマ市民の継続的な文化圏とは言えなかったのです。


実態は「中世ドイツの諸侯連合」

名前とは裏腹に、神聖ローマ帝国の実体はローマ帝国というより、むしろ分裂した中世ドイツの連邦体に近いものでした。


構成はドイツ系諸侯と都市

帝国は数百の領邦国家から成り立ち、なかでも中心的なのはザクセン、バイエルン、オーストリアなどのドイツ系諸侯たち。ラテン系やイタリア系の要素はごく一部で、住民も文化も圧倒的にドイツ世界でした。


皇帝選出もローマ式ではない

古代ローマの皇帝は軍事的支持や世襲が中心でしたが、神聖ローマ帝国では選挙によって皇帝が選ばれるという全く異なるシステムが確立されていました。これもまた「ローマ的」ではない特徴のひとつですね。


「“ローマじゃない”と言われる理由」まとめ
  • 政治の中心はローマではなかった:実際の首都はドイツやオーストリア圏だった。
  • 文化や制度が古代ローマとは異質だった:言語も法律も別物だった。
  • 実態はドイツ系諸侯のゆるやかな連合体だった:ローマ的な中央集権国家ではなかった。