
神聖ローマ帝国っていうと、皇帝や諸侯が集まってる政治のイメージが強いかもしれませんが、やっぱり戦争もガチでやってました。
そして、戦う兵士たちにとって欠かせなかったのが鎧(よろい)。中世〜近世にかけて、帝国の兵士たちはどんな鎧を着ていたのか?って、ちょっと気になりませんか?
この記事では、時代ごとに変わっていった神聖ローマ帝国の兵士の鎧に注目して、「どんな見た目だったの?」「何を守っていたの?」「どんな工夫がされてたの?」といった疑問を解き明かしていきます!
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神聖ローマ帝国が成立した頃(10〜12世紀ごろ)の兵士たちは、今みたいなガッチガチの金属鎧じゃありません。まずは鎖かたびら(チェインメイル)が主流でした。
チェインメイルは、小さな鉄の輪っかを編んで作る“網状のよろい”で、柔らかく体にフィットしやすいのが特徴。
といっても重量はかなりのもので、全部身につけると10〜15kgほど。
でも当時の武器は斬るものが中心だったので、斬撃にはかなり強かったんです。
この時代の鎧は、基本的にお金のある騎士が着るものでした。一般の兵士は鎧どころか、革の防具だけなんてことも多かったんですよ。
だからチェインメイルを着てるだけで、「あ、あの人お金持ちの戦士だ」って分かるような、ステータスアイテムでもあったんです。
14世紀後半になると、ヨーロッパ全体で鎧が進化を遂げます。ここで登場するのが、いわゆる全身を金属で覆う“プレートアーマー”です。
プレートアーマーは、鉄や鋼で作られた板を関節ごとに組み合わせ、全身をくまなく覆うタイプの鎧。
帝国の騎士たちは、この鎧を身につけて馬に乗り、敵の陣形に突撃するのが定番スタイルでした。
中でもゴシック・アーマーと呼ばれるドイツ系のデザインは、鋭いラインが美しく、機能と見た目を両立していたんです。
神聖ローマ帝国は、ドイツ地方のアウクスブルクニュルンベルクといった都市に鎧職人が集まっていて、プレートアーマーの生産地として超有名でした。
この頃になると、貴族は戦うためだけじゃなく、儀式やパレード用の超豪華な鎧を注文したりもしてたんですね。
まさに動く美術品みたいな存在だったわけです。
16世紀以降、銃や大砲といった火器が普及し始めると、プレートアーマーも“無敵”ではいられなくなります。ここからは実戦的に変化していくんですね。
火縄銃の登場で、「全身を鉄で守るよりも、動きやすくして少しでも早く攻撃した方が強い」という考え方が主流になります。
その結果、兵士たちは胴体だけを守るキュイラス(胸甲)を着るようになっていきます。
脚や腕はほぼ無防備なんですが、それよりも機動力とコスト重視ってわけですね。
この時期に有名なのが、神聖ローマ帝国の傭兵部隊ランツクネヒト。
彼らは鎧も着けましたが、むしろ派手なスラッシュ入りの衣装がトレードマーク。
鉄の鎧よりも、心理戦や個性のアピールが重視されていた側面もあるんです。
帝国の重騎兵(クーリアシエ)は、胸・背・肩だけを守る三分鎧を着用。これも機動性と防御のバランスを取ったデザインでした。
この頃の鎧は、もう「一撃を完全に防ぐ」よりも、「急所だけ守れればOK」という考え方にシフトしていたんですね。
神聖ローマ帝国の兵士たちが着ていた鎧は、時代とともにどんどん姿を変えていきました。
最初はチェインメイルから始まり、プレートアーマーの華やかな時代を経て、火器時代には動きやすさ重視の簡略化へ――まさに“戦い方の変化”がそのまま表れてるんです。
鎧はただの装備じゃなく、時代の空気をまとった「歴史の証」だったとも言えるのです。