
神聖ローマ帝国のような「バラバラ国家」で、兵士をどうやって集めてたの?と聞かれると──たしかに疑問が湧いてきますよね。現代のような徴兵制度があったわけでもないし、プロの軍人だけで回していたとも思えない。では、帝国の戦争は誰が戦っていたのか?どんな方法で兵士を確保していたのか?
この記事では、神聖ローマ帝国における兵士の「集め方」をテーマに、徴兵・志願・傭兵の各方式がどう使い分けられていたのか、そしてそれが社会にどんな影響を与えたのかをわかりやすく解説していきます。
そもそも神聖ローマ帝国には、全国的な「軍隊制度」があったわけではないんです。
帝国は諸侯・都市・教会領などの連合体。皇帝の命令があっても、兵を出すかどうかは各地の判断次第。つまり、兵士の確保もバラバラで、それぞれが独自のルールと方法で動員していました。
集められる兵士は、ある程度訓練された専門兵から、その場しのぎの農民民兵までさまざま。しかも戦争が長引けば、途中で補充する必要もあり、結果的にいろんな階層の人々が戦場に引っ張り出されることになったのです。
現代のような「国民から兵役を強制する制度」は、神聖ローマ帝国では基本的に存在しませんでした。
たとえばいくつかの領邦では、村ごとに一定数の兵を出すという取り決めがありました。これはいわば封建的な「軍役義務」の延長線上にある徴兵制度。領主が村の代表に「〇人出せ」と命じ、村側は年齢や体格などで適当な人を選んでいたんです。
ただし、多くの人は自分で兵役に行く代わりに、代理人を雇って代行させることができました。つまり「金で兵役を買う」ような制度が多く、「徴兵制」といっても強制力は弱めだったんですね。
戦争が続くと、徴兵だけでは足りなくなります。そんなとき登場するのが、いわゆる志願兵や傭兵です。
経済的に困窮していた農民や職人の中には、「給料がもらえる」という理由で自ら志願する者も多くいました。都市部では、市民軍が組織されることもあり、彼らは志願制で装備や訓練を受けていたこともあります。
不足分は傭兵隊で補いました。とくに三十年戦争期には、スイス・イタリア・ボヘミアなど各地から大量の傭兵が神聖ローマ帝国の戦争に投入されました。もちろん彼らは金が目的