
現代における神聖ローマ帝国軍の再現(バイエルン州メミンゲン)
帝国軍は統一的な常備軍ではなく、帝国議会の決議に基づいて各領邦から軍勢が供出される寄せ集め型の軍制だった
出典:Bene16『Reichsarmee (Wallenstein HRR)』/Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported, 2.5 Generic, 2.0 Generic and 1.0 Generic licenseより
中世から近世にかけて存続した神聖ローマ帝国。広大な領土、多様な民族、そして分権的な統治体制で知られていますが、それにしても──こんなバラバラな構造で、戦争のときどうやって軍隊をまとめてたの?と疑問に思った人も多いはず。実際、神聖ローマ皇帝が指揮する「軍隊」といっても、それは常備軍とはまったく別物。寄せ集め、協定、契約…いろんな形で成り立っていたんです。
この記事では、そんな神聖ローマ帝国の軍隊の仕組みや歴史を、なるべくやさしく整理しながら解説していきます。
まずは、神聖ローマ帝国という特殊な政治体制のなかで、軍事がどう位置づけられていたのかをざっくり確認しておきましょう。
神聖ローマ帝国の特徴は、なんといっても分権体制。皇帝が絶対的な力を持っていたわけではなく、各地の領邦君主が自治権を持っていました。そのため、いざ戦争というときも、皇帝が号令をかけるだけで「はい、集まります!」とはいかないんです。
戦争を始めるには帝国議会(ライヒスターク)での承認が必要。しかも、実際に兵を出すかどうかは各領邦の裁量次第でした。皇帝にとっては、事前の根回しと説得が重要だったというわけです。
実際に戦う軍隊は、大きく分けてふたつの種類がありました。それぞれの性格や構成に注目してみましょう。
帝国軍(Reichsarmee)は、帝国議会で決議されたときに、領邦や都市が共同で提供する軍。これには参加義務があり、各地が「何人出せるか」が事前に定められていました。ただし、実際には拒否されたり、遅延したりすることも多かったのが実情です。
また、帝国軍は寄せ集め部隊なので、統一的な指揮系統を取るのが難しいという欠点もありました。司令官には皇帝が指名した将軍があたりますが、実務では領邦軍の指揮官との調整が不可欠だったんですね。
皇帝軍(Kaiserliche Armee)は、皇帝個人が自前で編成した軍隊。これはとくにハプスブルク家の勢力が強かった時代によく見られます。オーストリアの軍事力をもとに、雇用兵や従属国の兵を加えて構成されていました。
この軍は皇帝直属なので、比較的統一された命令系統を持っていました。戦争の主導権を握りやすい一方で、帝国全体を代表しているわけではないという側面もあったのです。
神聖ローマ帝国の長い歴史のなかで、軍隊のあり方も大きく変化していきました。代表的な時期を見ていきましょう。
中世の初期、戦争といえば騎士たちの私闘が中心。封建制度のもとで、家臣たちが軍役を果たす形が基本でした。皇帝といえども、これを無理やり束ねるのは至難の業。むしろ、領邦どうしの小競り合いが常態化していました。
17世紀の三十年戦争は、神聖ローマ帝国にとって軍事制度の転換点。この時期、プロの傭兵を中心とした軍隊が主流となり、戦争が巨大化・長期化していきます。ハプスブルク家はここで大規模な皇帝軍を動かし、中央の軍事力を強化しようと試みました。
18世紀以降、プロイセンやオーストリアなど一部の大国以外では、帝国としての軍事力は形骸化。ナポレオン戦争期には帝国軍はほぼ機能不全となり、1806年の帝国解体を前に、その軍事的役割も終焉を迎えることになります。