
神聖ローマ帝国って、戦争が多かったわりには「軍事国家」というイメージがあまりないんですよね。
それもそのはず、帝国には近代国家みたいな常備軍がなく、戦争のたびに兵士を“かき集める”スタイルだったからなんです。
しかも兵士の供出も指揮権も領邦任せという、まさに“バラバラ帝国”らしいやり方。
この記事では、神聖ローマ帝国がどう兵士を集め、どう軍隊を編成し、どんな軍事システムで動いていたかをわかりやすく解説していきます!
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まず最初に押さえておきたいのは、「神聖ローマ帝国の軍隊」といっても、実は種類が違う軍が併存していたということです。
これは皇帝個人が指揮する軍で、ハプスブルク家の軍隊と事実上同一視されていました。
特に近世以降は、オーストリア軍そのものが帝国皇帝の主戦力として動きます。
こちらは帝国議会の決定によって編成される“全帝国的”軍隊。
領邦・都市・教会が分担して兵力を出し合い、いざというときだけ招集されました。
でも実態はというと、協力バラバラ、動きも遅いという厄介な存在だったんです。
帝国に常備軍はなく、兵士を集める仕組みは「分担方式」でした。
これはまさに帝国の“連合体”としての性格が表れた部分です。
最初に登場するのが、1422年に導入された帝国軍登録表。
ここで各領邦・帝国都市が出すべき兵力の数が決められたんです。
たとえば、
といったように、明細付きで割り当てられます。
この数字は1521年のヴォルムス帝国議会で標準化され、のちに40,000人体制(28,000歩兵+12,000騎兵)に。
各領邦は割り当てられた兵力を自分の領地内で集める必要がありました。
農民兵、傭兵、市民軍など、調達方法は自由。
でもお金がなければ兵を出せないので、「金で兵を買う」という形で代替することもありました。
帝国軍の制度は一見しっかりしてるように見えるんですが、実際の現場ではバラバラ、連携不足、調整不足という“お約束”の問題が山積みでした。
皇帝直属の軍と帝国全体の軍が並立しているうえに、領邦や都市ごとの軍も独自に動いていました。
つまり、「誰の命令で動くのか」が状況によって変わるんです。
戦場で「俺たちは皇帝の命令しか聞きません」って軍と、「ウチは都市参事会の指示しか聞きません」って軍が一緒にいたら……
そりゃ動かないわけです。
帝国が戦争状態に入ると、「帝国戦争(ライヒスクリーク)」として帝国軍を招集できますが、
ということで、「帝国軍、間に合わず!」というパターンが頻出します。
神聖ローマ帝国は「軍事が苦手」と思われがちですが、それでもいくつもの戦争を経験してきました。
帝国軍(ライヒスヘーア)が出動した代表的な戦争は以下のとおりです。
ただし、三十年戦争(1618–1648)には出動していません。この戦争に出たのは、皇帝直属の「皇帝軍」だったんです。
皇帝軍は、ハプスブルク家の領土防衛や対外戦争の主力として活躍します。
トルコとの戦い、フランスとの抗争、さらには国内反乱の鎮圧など、オーストリア軍としての顔が色濃くなっていきました。
神聖ローマ帝国の軍事体制は、ある意味で“帝国の限界”そのものを映し出していました。
一応ルールはある、けど動かない。いざ戦争になると、現場がバラバラでまとまらない――
それでも何百年も続いたのは、逆に言えば「帝国軍が動かなくても成り立つ」ほど、分権的な安定があったってことなのかもしれませんね。