神聖ローマ帝国とビザンツ帝国の違い─同じローマでも中身は別物!

神聖ローマ帝国とビザンツ帝国の違い

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)はローマ帝国の正統な後継を自認し、コンスタンティノープルを拠点に東方正教とギリシア文化を基盤に栄えた。一方、神聖ローマ帝国は西欧のキリスト教的理想に基づいて建てられた中世的な帝国で、皇帝は選挙で選ばれ、ラテン文化とカトリック教会の影響が強かった。両者は宗教・文化・政治体制すべてにおいて異なる。

名前はローマでも中身は別物!神聖ローマ帝国とビザンツ帝国の違い

神聖ローマ帝国ビザンツ帝国──この2つの国、どちらも「ローマ」という名前を冠しながら、その実態はまったく違います。でも、名前に“ローマ”が入ってるし、どちらも皇帝がいて、なんだか「ローマ帝国の続き」に見えてくるんですよね。


ところがどっこい、神聖ローマ帝国とビザンツ帝国(東ローマ帝国)は起源も文化も政治体制もまるで別物。この2つを混同すると、ヨーロッパと東地中海の歴史がごっちゃになってしまうんです。


この記事では、そんな「ローマの名を引き継いだ2つの帝国」の違いを、わかりやすくかみ砕いて解説していきます。



出発点がまったく違う

そもそもこの2つの国、どちらも“ローマ”を名乗ってはいますが、スタート地点がぜんぜん違うんです。


ビザンツ帝国はローマ帝国の直系

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、395年のローマ帝国分裂後、コンスタンティノープルを首都とした正統なローマ帝国の東側です。476年に西ローマ帝国が滅亡しても、東ローマはそのまま続き、千年以上も存続。つまり、「本家ローマ帝国」の生き残りだったわけです。


西暦555年の東ローマ帝国(ビザンティン帝国)地図

555年の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の領域
全盛期のビザンツ帝国は地中海東岸・北アフリカ・イタリア半島を含む広域を支配したが、神聖ローマ帝国の領土は主にドイツ・中欧に限定され、地理的・文化的に重なりは少なかった。

出典:Tataryn(著者) / Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0より


神聖ローマ帝国は“ローマの看板”を借りた

一方、神聖ローマ帝国は962年、オットー1世がローマ教皇から皇帝冠を受け取ったことで誕生。すでにビザンツ帝国が現役で存在していた時代に、「ローマの後継者」を名乗り出た、いわば“ローマを名乗る別の国”だったんです。


文化と宗教がまったく違う

同じ“ローマ”という名でも、その文化や宗教のあり方は全然違っていました。


ビザンツはギリシア語文化圏

ビザンツ帝国では、支配層も庶民もギリシア語を話し、文化も東方的。神学や哲学、法制度もローマ+ギリシアの融合で成り立っており、キリスト教も東方正教会が主流でした。つまり「ローマの衣をまとったギリシア世界」とも言えるんです。


神聖ローマはラテン・ゲルマン系

神聖ローマ帝国ではラテン語が儀礼語として使われつつ、実際にはドイツ語圏のゲルマン文化が支配的。宗教もローマ=カトリック教会の教義が中心で、のちにはプロテスタントも台頭。東方正教とは思想的にも教会組織的にも断絶していました。


国家の構造と皇帝の在り方が違う

両者は“皇帝が治める国”という点では共通していますが、その実態はまるで正反対。


ビザンツ皇帝は専制君主

ビザンツ帝国の皇帝は絶対的な権力を握り、行政・軍事・宗教すべてを掌握する存在でした。官僚制度も高度に発展しており、ローマ帝国の統治機構を引き継いだ中央集権国家だったのです。


神聖ローマ皇帝は調整役

一方、神聖ローマ帝国では、皇帝は選帝侯による選挙制で選ばれ、その権限も諸侯の協力があってこそ。数百の領邦がそれぞれ独自の法と軍隊を持つ分権型の国家連合で、皇帝は強力な統治者というより“まとめ役”だったんです。


「神聖ローマ帝国とビザンツ帝国の違い」まとめ
  • 成り立ちが違う:ビザンツはローマ帝国の直系、神聖ローマは“後継”を名乗る別国家だった。
  • 文化圏が異なる:ビザンツはギリシア語と正教会、神聖ローマはラテン文化とカトリックが中心だった。
  • 国家体制が正反対:ビザンツは中央集権、神聖ローマは分権型の緩やかな連合体だった。