
18世紀ヨーロッパ──王が亡くなり、後継ぎが女性だっただけで、大陸全体が戦争に突入した…そんなウソみたいな本当の話がオーストリア継承戦争です。
戦争の中心にいたのは、神聖ローマ皇帝の娘マリア・テレジア。彼女が“帝国の看板”であるハプスブルク家の領地を引き継ごうとしたとたん、他国がこぞって「ちょっと待った!」をかけ、ドイツ諸邦やフランス、プロイセンまで巻き込む大戦争に発展したんですね。
この記事では、このオーストリア継承戦争の背景・結果・帝国への影響を、わかりやすく整理していきます。
きっかけは、皇帝の“娘しかいなかった”という一点に尽きます。
神聖ローマ皇帝カール6世(1685–1740)は、男子をもうけることができず、娘のマリア・テレジアに領地を継がせたいと望みました。そこで制定したのが「国事詔書(1713)」。これは「女性でもハプスブルク家の相続人として認める」とするもので、多くのヨーロッパ諸国から一応は承認されていました。
ところが、1740年にカール6世が死ぬやいなや、フランス・バイエルン選帝侯・プロイセンが次々と「そんなの認めてないし!」と言い出し、ハプスブルク領を分割しようと動き出したのです。
プロイセン王フリードリヒ2世は、さっそくシュレージエンに侵攻。これが戦争の火ぶたを切ったのです。
オーストリア継承戦争は、1740年から1748年まで続き、戦場はオーストリア、ドイツ、イタリア、ネーデルラントと広範囲におよびました。
最終的に1748年のアーヘンの和約で戦争は終結。マリア・テレジアの即位とハプスブルク家の領地継承は認められたものの、プロイセンはシュレージエンを手放さず、そのまま支配を続けることになりました。
つまり、表面上はオーストリアが勝ったように見えて、実はプロイセンが最大の得をしたという構図だったのです。
フランスは神聖ローマ皇帝にバイエルン公を擁立するも、まもなく死亡。その後継者も即位を放棄。フランスにとっては割に合わない戦争となりました。
この戦争は、神聖ローマ帝国の“外からの顔”だけでなく、“内側の構造”にも大きな揺さぶりをかけるものでした。
マリア・テレジア(1717–1780)は、女性でありながら帝国の主権者としての地位を築き、実質的に皇帝と同格の存在となりました。正式な皇帝にはなれないものの、夫フランツ1世を皇帝にし、自らはハプスブルク家の中心として君臨し続けます。
この戦争をきっかけにプロイセンが「帝国内の第二の大国」として急浮上。オーストリアとの二極化構造(ドイツ二重体制)が明確になり、のちの七年戦争・ナポレオン戦争、さらにはドイツ統一の伏線となっていきます。
選帝侯たちが思い思いに動き、皇帝の指導力が戦争を止められなかったことから、帝国という枠組みの限界が露呈しました。つまり「皇帝がいても命令できない国」であるという構造が、ますます明らかになってしまったのです。