
11世紀の神聖ローマ帝国──その北東の境界線には、しばしば「野蛮」とされた勢力が押し寄せていました。
その中でも最大の脅威とされたのが、東から攻めてきたマジャル人(ハンガリー人)。
この騎馬民族を食い止めるため、帝国は一世一代の大決戦に挑みます。それがレヒフェルトの戦い(955年)です。
この戦いは単なる軍事衝突ではなく、「神聖ローマ帝国」という名が現実の力を持ちはじめた歴史的なターニングポイントだったのです!
この戦いが起きた背景には、ヨーロッパ全体を揺るがしていた“東からの脅威”がありました。
9世紀末から10世紀にかけて、現在のハンガリー平原に定住したマジャル人は、そこを拠点に西欧への襲撃を繰り返すようになります。
彼らは機動力のある騎馬戦法を武器に、神聖ローマ帝国の領土を蹂躙していました。
これに対し、帝国側はまとまった反撃ができず、防戦一方。農民や修道院は常に略奪の脅威にさらされるという、治安崩壊状態に陥っていたのです。
この危機に立ち上がったのが、ザクセン朝のオットー1世(912–973)。
当時は「東フランク王国」の王でしたが、後に「神聖ローマ帝国の始祖」と呼ばれることになる人物です。
彼は「もはや逃げてはいけない」と決意し、ドイツ各地の軍を集結させ、本格的な反撃に出ることになります。
戦場はドナウ川支流・レヒ川の畔──この一戦で、帝国はマジャル人に対して初の決定的勝利を収めます。
955年、オットー1世率いる帝国軍は、アウクスブルク近郊レヒフェルトでマジャル軍と対峙。
ドイツ各地から動員された歩兵と重装騎士たちが連携し、数で勝るマジャル騎兵を押し返しました。
この戦いでは、帝国軍が捕虜にしたマジャル人を処刑するなど、徹底した姿勢で二度と侵略させない意志を示したのも特徴です。
レヒフェルトの敗北以降、マジャル人の西進は完全に終息。
彼らは軍事的遠征をやめ、やがてハンガリー王国としてキリスト教圏に組み込まれていくことになります。
レヒフェルトの勝利は、単なる防衛成功にとどまらず、帝国そのものの形成に深く関わっていきます。
この戦いによって、オットー1世は「異教からキリスト教世界を守る英雄」として賞賛されます。
この軍功が評価され、彼は962年に教皇から「ローマ皇帝」として戴冠され、神聖ローマ帝国が名実ともに誕生する土台を築いたのです。
レヒフェルトでは、バイエルン・シュヴァーベン・フランケンなど、各地の軍が結束して戦いました。
この経験を通じて、ドイツ諸侯の間に「皇帝を中心に連携する」という意識が芽生え、帝国の構造形成に大きく寄与します。
この勝利によって、神聖ローマ帝国には「キリスト教世界を守る盾」というイメージが定着。
それは十字軍やオスマン帝国との戦いに受け継がれ、以後の帝国意識にも大きな影響を与えることになります。