
カール大帝(742年頃 - 814年)が築いたカロリング帝国は、800年に神聖ローマ皇帝の冠を受けることでヨーロッパの覇権を握りました。しかし、彼の死後、帝国の継承をめぐって孫たちのあいだで対立が深まり、分裂は避けられない状況に。843年のヴェルダン条約で三つに分割された帝国は、その後も勢力争いを繰り返していきます。
そして870年に結ばれたのが、今回のテーマであるメルセン条約。これはフランク王家の内部調整というだけでなく、のちの神聖ローマ帝国とフランスの“原型”をかたちづくる意味でも、非常に大きな節目となった外交協定です。
この条約がどんな場所で締結され、どんな内容が話し合われたのか、そしてそれが中世ヨーロッパの秩序にどのような影響を与えたのか、順番に解説していきます。
まずはこの条約が結ばれた「メルセン」という地について簡単に見ておきましょう。
メルセン(MersenまたはMeerssen)は、現在のベルギーとオランダの国境付近に位置する小さな町です。当時はロートリンゲン地方(ロレーヌ)の一部であり、三つに分かれたフランク王国のあいだで交通・政治の要衝として機能していました。
843年のヴェルダン条約で一度は国境線が引かれましたが、その後、中部フランク王国を継いだロタール1世の子孫が相次いで亡くなったことで、再分割の必要が生じたのです。メルセンはこの再交渉の場として選ばれました。
では、この条約ではどのような取り決めがなされたのでしょうか。
メルセン条約では、ロタール1世の子ルートヴィヒ2世が嗣子なく没したことを受け、彼の支配していた中部フランク王国(ロタール領)を、残る二人の王─東フランク王ルートヴィヒ2世と西フランク王シャルル2世で分け合うことが決められました。
分割線はライン川を基準として引かれました。これにより、アルザス・ロレーヌやブルグント地方といった戦略的にも文化的にも重要な地域が、両王国の支配下にそれぞれ取り込まれていきます。
この条約が後世に与えた影響は、単なる国境線の調整にとどまりません。
メルセン条約以後、フランク王国の中心は西(後のフランス)と東(後の神聖ローマ帝国)という二極に固定されます。中部フランクの消滅によって“中間王国”が消えたことで、フランスとドイツという分断構造がはっきりと形になり始めたのです。
条約の結果、両地域では異なる統治体制・言語・文化が発展していき、のちのフランス王国と神聖ローマ帝国へと分かれていく基礎が作られました。つまりこの条約は、ヨーロッパ中世における国家形成の“分水嶺”でもあったわけです。