
ドイツの田舎でくすぶっていた不満が、宗教改革と合体して大爆発──それがドイツ農民戦争(1524〜1525年)です。
この戦争は、「農民vs領主」という単純な対立ではなく、ルターの宗教改革に感化された農民たちが、「信仰も自由なら、農民の生活も自由であるべきでは?」と立ち上がった点がポイントなんです。
神聖ローマ帝国にとっては、下からの声が政治を揺るがす初めての経験。では、なぜ彼らは戦ったのか?どんな結末を迎えたのか?そして帝国にはどんな影響を残したのか?一緒に見ていきましょう!
ドイツ農民戦争は、単なる食料不足や税の不満ではなく、深く宗教と社会構造に根差した闘いでした。
農民たちは領主による年貢・賦役・狩猟権の独占などに苦しみ、不満を募らせていました。とくに“共同地の囲い込み”や、“水車・製粉・釣り”の使用料など、生活の細部にまで干渉する封建制度に対し、「もう我慢の限界!」となっていたのです。
1520年代初頭、ルターの宗教改革が始まり、「信仰は個人の自由」「聖職者は特別な存在ではない」といった思想が農民層にも広まりました。こうした考えは、「じゃあ領主の支配だって神の意志じゃないよね?」という社会的不平等への疑問に火をつけることになります。
1525年、農民たちは「十二か条要求」と呼ばれる要求書を作成。そこには「年貢の軽減」「漁場・森の利用自由化」「裁判の公正化」などが盛り込まれており、かなり理性的かつ交渉的な内容でした。つまり、最初から暴力を望んでいたわけではなかったのです。
農民たちは帝国各地で蜂起しますが、結果的には徹底的に鎮圧されることになります。
反乱はシュヴァーベン・フランケン・テューリンゲン・ザクセンなど、南ドイツから中部ドイツにかけて広がりました。一部の地方では都市民や低位聖職者も農民側につくなど、単なる農民運動にとどまらない広範な社会運動に発展しました。
ところが、信仰的に後ろ盾になってくれると思われたマルティン・ルターは、「暴力は許されない」として農民側を非難。これによって指導者不在となった農民たちは、武装した諸侯軍に次々と打ち破られていきます。
特にフランケン地方のフランツ・フォン・ジッキンゲンなど、帝国の有力者たちが積極的に反乱鎮圧に乗り出し、約10万人とも言われる農民が犠牲となりました。
この一連の出来事は、宗教改革の最中だった帝国に、強烈な現実を突きつけました。
この農民戦争以降、「宗教改革は下層民の暴力を誘発する」といった見方が広まり、保守的諸侯の警戒心を一気に高めることになります。改革派の動きはより制限されるようになり、帝国内の宗教的分裂は政治的対立の火種にもなっていきました。
反乱の失敗によって、各地の領主は農民支配をいっそう強化。要求は一切受け入れられず、以前よりも重い義務が課されるケースも出てきました。つまり「反抗したらどうなるか」を見せつける形になったわけです。
宗教による精神的改革が広がるなか、政治・経済・身分制度の改革はまだ時期尚早だったことが、この戦争で浮き彫りになりました。信仰の自由は進んでも、農民にとっての自由はまだ遠かったというわけですね。