
16世紀半ば、神聖ローマ帝国で起きた宗教戦争のひとつにして、ルター派諸侯と皇帝が真っ向からぶつかった大事件──それがシュマルカルデン戦争です。
この戦争は、ただの地域紛争ではありませんでした。信仰を守るために立ち上がった諸侯たちと、それを武力でねじ伏せようとする皇帝。「宗教改革vs旧来の秩序」というヨーロッパ全体を揺るがすテーマが、この一戦に凝縮されていたのです。
戦争の根っこにあるのは、やはり宗教改革。それに対する皇帝の焦りと決断が、武力衝突へと発展していきます。
1517年、ルターの宗教改革が始まり、ドイツの諸侯や都市のなかにはルター派(プロテスタント)に転向する動きが広がっていきます。しかし、ローマ教皇も神聖ローマ皇帝カール5世も、これを許すつもりはありませんでした。
そこで、ルター派の諸侯たちは1531年に「シュマルカルデン同盟」を結成。互いに協力し、信仰と権利を守ることを目的に、事実上の宗教軍事同盟が誕生したのです。
皇帝カール5世(1500–1558)は、スペイン王でもあり、ヨーロッパ随一の権力を誇っていましたが、神聖ローマ帝国では諸侯の独自性と信仰の自由が強く、思うように統治できませんでした。
宗教の統一が帝国の安定につながると考えたカール5世は、シュマルカルデン同盟を「反乱」とみなし、軍事行動に踏み切ります。こうして1546年、シュマルカルデン戦争が勃発しました。
カール5世が優勢だったにもかかわらず、勝ったのは皇帝…とは一筋縄ではいかない展開に。
1547年、カール5世の皇帝軍は、ザクセン選帝侯モーリッツらの軍を撃破。ミュールベルクの戦いではルター派の代表的指導者ヨハン・フリードリヒを捕らえるという大勝利をおさめます。
この時点でプロテスタント勢力は軍事的に敗北。カール5世はアウクスブルク仮信条(Interim)を発布し、旧来のカトリック的教義への暫定的な復帰を命じます。
ところが、各地のルター派諸侯や市民はこれに強く反発。軍事的には勝ったものの、宗教の力を政治で押さえつけるのは不可能だったんですね。
さらに、同盟を裏切って皇帝側についたザクセン選帝侯モーリッツが、のちにカール5世と対立し、第二次シュマルカルデン戦争(1552年)を起こすなど、事態は泥沼化していきます。
この戦争が神聖ローマ帝国に与えた影響は、単なる軍事的なものにとどまりませんでした。
カール5世は帝国を宗教的にも統一しようとしましたが、シュマルカルデン戦争を通じてその限界が明らかになります。結局、宗教の違いを武力では解決できないという現実が突きつけられたのです。
1555年、カール5世はついにアウクスブルクの和議を受け入れ、「領邦の信仰は領主が決める(Cuius regio, eius religio)」という原則が帝国内で認められました。つまり、プロテスタントも帝国法的に合法化されたのです。
この戦争以降、神聖ローマ皇帝の信仰統制力と支配力は著しく低下。カール5世自身も失意のうちに退位し、帝国は事実上「多宗派共存の連邦体制」へと移行していくことになります。