
カール大帝(742年頃 - 814年)が築き上げた広大なカロリング帝国は、その死後すぐに後継問題に直面しました。彼の息子ルートヴィヒ1世(778 - 840)はなんとか帝国を維持しましたが、その息子たちの間で深刻な相続争いが発生。内戦にまで発展した末、ようやく取り決められたのがヴェルダン条約(843年)です。
この条約は、ヨーロッパ中世の「国」という概念の始まりとも言える重要な分水嶺であり、後のフランス・ドイツ(神聖ローマ帝国)・イタリアへとつながる分裂の起点になりました。
今回はこのヴェルダン条約が結ばれた背景と場所、具体的な内容、そしてヨーロッパ世界に与えた決定的な影響について、わかりやすく整理していきましょう。
まずは条約名にもなっている「ヴェルダン」がどこなのかを確認しておきましょう。
ヴェルダンは、フランス北東部、ロレーヌ地方にある都市です。ローマ時代から続く古い町で、交通の要衝でもありました。のちの第一次世界大戦で激戦地となることでも知られていますが、実はこのヴェルダン、9世紀にもヨーロッパの運命を分ける舞台となっていたのです。
ルートヴィヒ1世の死後、三人の息子たちは帝国をめぐって争い、840~843年には帝国内戦が発生。最終的に和平を結ぶ場として選ばれたのがこのヴェルダンでした。ちょうど三兄弟の勢力圏の境界に位置していたことが、場所としての理由です。
この条約で、カール大帝の帝国は三つに分けられました。
皇帝の称号を持つ長男ロタール1世は、中部フランク王国を継承。これは北海からイタリアまで縦断する細長い領域で、後のロタリンギア(ロレーヌ)やブルグントなどを含む複雑な地域でした。
次男ルートヴィヒ2世は東側を受け取り東フランク王国を、三男シャルル2世は西側を受け取り西フランク王国をそれぞれ治めることになります。ここからそれぞれ、ドイツとフランスの起源となる国が育っていくわけです。
この条約が歴史に与えたインパクトは計り知れません。
この条約によって、単一の大帝国は正式に三分割され、「兄弟が対等な王として国を治める」体制が定められました。これは、“ローマ皇帝=一人の支配者”という概念の終焉を意味し、中世的な多極構造の始まりとなったのです。
ロタールの中部フランクは後に再分割されて消滅しますが、東フランクと西フランクは生き残り、のちに神聖ローマ帝国とフランス王国へと発展します。ヴェルダン条約は、まさに「ヨーロッパ国家」の原型をかたちづくった出発点だったのです。