神聖ローマ外交史「アウクスブルクの和議」をわかりやすく解説

アウクスブルクの和議とは

アウクスブルクの和議は、神聖ローマ帝国でカトリックとルター派の共存を認めた1555年の宗教和平で、宗教対立の一時的な終結と領邦の信仰選択権が確立された。

神聖ローマ外交史「アウクスブルクの和議」をわかりやすく解説

神聖ローマ帝国の歴史のなかで、最も根深い対立のひとつが「宗教」でした。16世紀になると、マルティン・ルター(1483 - 1546)による宗教改革が始まり、帝国内のあちこちでカトリックとプロテスタントが激しくぶつかるようになります。そして、ついにこの対立が一大内戦へと発展したのがシュマルカルデン戦争(1546~1547年)でした。


戦争は一応皇帝側の勝利で終わったものの、プロテスタント諸侯の勢いは止まらず、結局、皇帝カール5世は妥協を選ばざるを得なくなります。その結果として結ばれたのが、今回解説するアウクスブルクの和議(1555年)なのです。


この和議がどういう場所で行われ、どんな内容が盛り込まれたのか、そしてそれが帝国全体にどんな影響を及ぼしたのかを、順番にわかりやすく見ていきましょう。



アウクスブルクの場所

まずは舞台となったアウクスブルクについて見ていきましょう。


バイエルン地方の重要都市

アウクスブルクは、現在のドイツ南部にある都市で、バイエルン州に位置します。ローマ帝国時代からの歴史を持ち、中世・近世には商業・金融の中心地としても栄えました。


帝国議会の定例開催地

この都市は、神聖ローマ帝国における「帝国議会」(ライヒスターク)の開催地としても知られており、皇帝と諸侯、聖職者が一堂に会する重要な場所だったのです。和議の交渉にアウクスブルクが選ばれたのも、その格式と利便性によるものでした。


アウクスブルクの和議の内容

つづいて、この和議で取り決められた中身を見ていきます。


信仰選択の自由を認める

和議の核心は、「各領邦君主が自国の宗教を決定できる」という原則です。これは「領主の宗教が、民の宗教を決める」(cuius regio, eius religio)という考え方で、皇帝が一方的に信仰を強制することを事実上放棄した内容といえます。


合法宗派はカトリックとルター派のみ

ただしこの「信仰選択の自由」は、すべての宗派に当てはまるわけではありませんでした。合法とされたのはカトリックアウクスブルク信仰告白に基づくルター派だけ。他の改革派(たとえばカルヴァン派など)は対象外で、依然として弾圧の対象となりました。


アウクスブルクの和議の影響

最後に、この和議がもたらした長期的な影響を考えてみましょう。


一時的な平和の実現

この和議によって、少なくともカトリックとルター派の間には大規模な内戦を避ける枠組みができました。これにより、16世紀後半は比較的平穏な時代を迎えることになります。


帝国内の分裂を固定化

一方で、「領主ごとに宗教が異なる」という状況が正当化されたことで、帝国の一体性は大きく損なわれてしまいます。統一された宗教的価値観をもたない帝国という現実が、ここに制度として確定してしまったわけです。


「アウクスブルクの和議」まとめ
  • 1555年にアウクスブルクで結ばれた宗教的妥協:カール5世がプロテスタント諸侯と和解するために締結
  • 「領主の宗教が民の宗教」を原則化:皇帝の宗教支配権を大きく制限
  • カトリックとルター派のみが合法宗派とされた:カルヴァン派などは依然非公認
  • 一時的な宗教平和を実現:戦火の拡大を抑える一定の役割を果たした
  • 帝国内の宗教的分裂を制度化した:神聖ローマ帝国の統一性は弱まる結果に