
ドイツ南部の都市ニュルンベルク。その旧市街の高台にそびえるのがニュルンベルク城です。ゴツゴツした石の城壁、尖塔、塔──まるで中世の絵本から抜け出したような風景ですが、じつはこの城、神聖ローマ帝国にとってはただの「お城」じゃなかったんです。
というのも、ニュルンベルク城は皇帝の居城として重要な役割を果たしてきた場所。なかでも11~16世紀にかけては、歴代の皇帝たちが帝国巡幸の中継地点として立ち寄り、帝国会議や儀式を執り行った「神聖ローマ帝国のもうひとつの顔」だったとも言えるんですね。
今回はそんなニュルンベルク城の建築スタイル、構造、そして歴史的背景を掘り下げていきます!
もともと防御目的で建てられた城塞だけに、その建築様式も機能美と威厳を兼ね備えています。
ニュルンベルク城の起源は11世紀ごろにさかのぼりますが、その後の改築を経てロマネスク様式とゴシック様式が混在する姿となっています。石造の厚い壁や丸いアーチはロマネスク的で、一方で尖塔や高窓、精緻な飾りのある礼拝堂などはゴシックの影響が見られます。
この城の特徴は、「戦うための城」であると同時に、「皇帝の象徴」としての顔も持っている点。つまり防御性と儀礼性の二重構造を兼ね備えていて、建築そのものが政治と軍事のバランスを体現しているわけです。
一見するとごつい石の塊にしか見えませんが、内部に入るとかなり複雑な構造をしていて、皇帝と都市との特別な関係が見えてきます。
ニュルンベルク城は大きく皇帝城(カイザーブルク)と市民城(ブルガーシュロス)に分かれていて、王権と市民権の共存が建物に表れています。皇帝の居住空間、礼拝堂、会議室などが機能的に配置され、それぞれが独立しつつも連携した構造になっています。
注目したいのは円形のロタンダ(塔)と、2層構造のダブルチャペル。とくに後者は、下層が使用人・兵士用、上層が皇帝用という構造で、身分の差を空間で明示していたんです。こうした構造には、神聖ローマ帝国的な“ヒエラルキーの美学”がにじみ出ています。
「なぜニュルンベルクだったのか?」という疑問には、神聖ローマ帝国の政治構造と地理的な戦略性が深く関係しています。
神聖ローマ皇帝は定住の宮殿を持たず、巡幸(イタリア語でいう「イターリア」)を通じて領土を管理していました。その中でニュルンベルクは交通の要衝として重視され、帝国会議の開催地や公文書保管の地としても使われたんです。つまり“帝国の中枢機能が一時的に集約される場所”だったというわけ。
ニュルンベルク自体が自由帝国都市として特別な自治権を持っていたため、皇帝の城と市民の町が絶妙な距離感で共存する構造が生まれました。城が都市に君臨するというより、両者が互いに権威を補完する関係だったことも大きな特徴です。