
神聖ローマ帝国の歴史の中でも、宗教と政治が真っ向からぶつかった大事件──それが叙任権闘争(じょにんけんとうそう)です。
「叙任権」ってなんだか難しそうに聞こえるかもしれませんが、要するにこれは「誰が司教を任命するのか?」という人事権をめぐる大喧嘩。しかもそれが、皇帝とローマ教皇というヨーロッパ最大の権威同士の間で起こったのです。
この記事では、叙任権闘争の登場人物・発端・結末を、できるだけわかりやすく整理していきます!
まず最初に、この対立は皇帝 vs 教皇という構図で始まりました。
主役は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(1050 - 1106)と、ローマ教皇グレゴリウス7世(在位1073 - 1085)。
ハインリヒ4世は自らの力で聖職者(特に司教)を任命して、帝国内の支配体制を強化していました。一方、教皇グレゴリウス7世は「教会の人事は教皇庁のものだ!」と真っ向から主張。つまり宗教界のトップを誰が決めるかで争いが始まったわけです。
当時の神聖ローマ帝国では、聖職者が領主として土地を治めることも多く、司教や大司教は「宗教家」でもあり「政治家」でもありました。だからこそ、皇帝にとっても教皇にとっても、司教の任命権は絶対に譲れない利権だったんですね。
では、いったい何がきっかけでこの大バトルは勃発したのか?その答えは、11世紀のヨーロッパにおける教会改革の動きにあります。
当時の教会では、金銭で聖職位を売買する聖職売買(シモニア)や、政治家が勝手に教会人事を決める俗人叙任が横行していました。これに反発して、教皇庁ではクリュニー修道院運動などを中心に「教会の浄化」を進める流れが生まれたのです。
教皇グレゴリウス7世は「教皇だけが司教を任命できる」とする勅令を発布。これに真っ向から反対したハインリヒ4世が反発し、両者はついに真っ向から衝突。これが1075年の叙任権闘争の始まりとなりました。
教皇はハインリヒ4世を破門、つまり「教会の外に追放」するという強硬手段に出ました。これにより、皇帝の権威もガタ落ち。困ったハインリヒは1077年、雪の中カノッサ城を訪れて謝罪することに──これが有名な「カノッサの屈辱」です。
ではこの激しい対立、どうやって終わったのでしょうか?
最終的にこの争いは1122年の「ヴォルムス協約」によって一応の決着を迎えます。
この協約では:
という形で教会と皇帝の役割分担が明確化されました。
皇帝は以前のように自由に聖職者を任命できなくなりましたが、政治的な影響力は一部維持。教皇側も全面的な支配はできず、“半分妥協・半分勝利”という決着に。とはいえ、教会の独立性を確立するうえで、この協約は大きな一歩だったんです。