神聖ローマ帝国戦史「フス戦争」をわかりやすく解説

フス戦争とは

フス戦争は、神聖ローマ帝国とベーメンの宗教改革運動フス派との間で起きた戦争で、カトリック支配に対する民衆の反発が帝国の宗教対立を先鋭化させる契機となった。

神聖ローマ帝国戦史「フス戦争」をわかりやすく解説

15世紀初頭、ボヘミア(現在のチェコ)で突如として燃え上がった反カトリックの大炎──それがフス戦争です。神聖ローマ帝国の宗教秩序が揺らぎ始めたこの出来事は、宗教改革の先駆けともいえる重要な一戦。当時の帝国が抱えていた「宗教」「民族」「権力」それぞれの矛盾が一気に噴き出した、大事件だったのです。


この記事では、そんなフス戦争の背景・結果・そして神聖ローマ帝国への影響について、わかりやすく解説していきます!



戦争の背景と原因

フス戦争の火種は、ある宗教思想家の処刑によって一気に爆発しました。


ヤン・フスの宗教改革思想

ボヘミアの神学者ヤン・フス(1370頃–1415)は、当時のカトリック教会の腐敗──特に聖職売買や贖宥状の乱用──に異を唱え、「聖書に立ち返るべきだ」と説きました。
その思想はジョン・ウィクリフの影響を受けており、後のルターに先んじるものでもありました。


宗教会議での処刑と民衆の怒り

フスは1415年、神聖ローマ皇帝ジギスムントの保証のもとコンスタンツ公会議に出席しましたが、公会議は彼を異端と断定し、火あぶりで処刑
この処置にボヘミアの民衆は激怒。「教会と帝国は信義を守らなかった!」という怒りが爆発し、反乱が始まったのです。


フス派の武装蜂起

フス派は教会と神聖ローマ帝国、さらにはハンガリー・ポーランドなど周辺国に対しても武力で対抗する姿勢をとり、「神の正義」の名のもとで大規模な戦争へと突入していきました。


戦争の結果と勝敗

この戦争、単に異端を取り締まるための十字軍──では終わりませんでした。


十字軍がフス派に敗れる

神聖ローマ皇帝ジギスムントは、フス派を鎮圧するため何度も十字軍を派遣しますが、ことごとく敗北
とくにフス派の軍事指導者ヤン・ジシュカは、農民や市民を中心とした軍で見事に十字軍を打ち破り、「フス派の英雄」として語り継がれました。


フス派内部の分裂と和解

しかしフス派の中でも穏健派(ウトラキスト)と急進派(ターボル派)が対立し、最終的には皇帝と妥協した穏健派が勝利。
1436年のバーゼル協約でウトラキスト派の信仰が一部認められ、戦争は終息に向かいます。


神聖ローマ帝国への影響

フス戦争は、単なるボヘミア地方の反乱ではなく、帝国全体に深い爪痕を残しました。


宗教秩序の崩壊の前兆

フス戦争は、宗教的正当性だけでは人々を従わせることができないという“教会権威の限界”をあらわにしました。
後のルター派やプロテスタント運動に、精神的な道筋を開いた先駆けともいえる出来事だったのです。


帝国の権威低下

ジギスムント帝は十字軍の連敗によって軍事的・政治的威信を大きく失墜
「皇帝は異端すら鎮圧できない」という印象が広まり、地方諸侯の自立化を進めるきっかけとなりました。


ボヘミアの特異な地位

戦争後、ボヘミアは表向き帝国の一部でありながら、宗教的にも政治的にも独自色の強い地域となっていきます。 この「ボヘミア特別扱い」は、のちの三十年戦争でも大きな伏線となるのです。


「フス戦争」まとめ
  • 発端はヤン・フスの処刑と宗教的怒り:信仰の自由を求めた民衆が武装蜂起した。
  • 十字軍が何度も敗北:農民主体のフス派軍が皇帝軍を撃破する異例の展開に。
  • 穏健派と皇帝の妥協で終戦:1436年のバーゼル協約で一部信仰が承認された。
  • 帝国と教会の権威が動揺:宗教改革への道筋を切り開いた前例となった。
  • ボヘミアが“異端の国”として特殊化:帝国内でも一風変わった存在になっていく。