
神聖ローマ帝国の歴史を語るとき、避けて通れないのが「宗教」です。
というのも、この帝国はそもそも“キリスト教の守護者”として生まれ、やがてその宗教が帝国を真っ二つに割ることになるからなんです。
カール大帝の戴冠に始まり、フス派運動、宗教改革、三十年戦争――そのすべてが宗教と政治の綱引きの中で起こりました。
この記事では、神聖ローマ帝国の宗教史を「成立から分裂、そして多様化」の流れに沿って見ていきます!
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神聖ローマ帝国は、最初から「カトリックとセット」で作られた国家でした。
皇帝の権威の源は、神の代理人=教皇から与えられた「戴冠」にあったんです。
フランク王カールがローマ教皇レオ3世から“ローマ皇帝”の冠を授かることで、神聖ローマ帝国の原型が誕生します。
ここから、政治と宗教の共存と緊張の歴史が始まるわけです。
皇帝は「信仰の守護者」としてカトリック教会を支える一方で、「自分こそ神に選ばれた支配者だ」と教皇に対抗する場面も多くありました。
その最たる例が、11世紀の叙任権闘争です。
宗教的な緊張が初めて本格的な内戦レベルになったのが、15世紀初頭のボヘミアでの出来事です。
ボヘミア(現チェコ)の神学者フスが教会の腐敗を批判し、処刑されたことで、民衆が蜂起。
これがフス戦争に発展し、帝国は自らの内部で“異端との戦争”を経験することになります。
この動きは、のちの宗教改革への伏線にもなっていくのです。
そして16世紀、宗教はついに帝国を真っ二つに分けてしまう爆弾になります。
その中心人物がマルティン・ルターでした。
ルターが贖宥状(免罪符)を批判したことを皮切りに、帝国内でプロテスタント運動が広がります。
「救いは信仰によってのみ得られる」という主張は、教皇の権威を根本から揺るがすものでした。
「領主の宗教が住民の宗教になる」という原則が採用され、帝国は正式に宗派ごとの領邦に分かれることになります。
これが“一国一宗教”の法制化であり、分裂の固定化でもありました。
宗教の分裂はついに大戦争へ。しかも、それは宗教戦争であり政治戦争でもあったんです。
発端はボヘミアのプロテスタント諸侯がハプスブルク皇帝に反旗を翻したことでした。
そこにカトリック諸侯、プロテスタント諸侯、そしてフランスやスウェーデンまで介入し、帝国は空前の泥沼戦争に。
この条約は宗教的寛容を掲げ、「カトリック・ルター派・カルヴァン派」いずれも認めることに。
諸侯は独自に宗教を選ぶ権利(外交権も)を獲得し、帝国は事実上“緩やかな宗教連合国家”となっていきます。
17世紀以降の帝国では、「宗教の多様性」は日常になっていきます。
ただし、それが完全な自由だったかというと――そうでもなかったんです。
たとえば、都市ではカトリックとプロテスタントの教会が隣り合って建つようなケースもありました。
でも地方によっては、宗派の違いが対立や排除の原因にもなっていました。
帝国内ではユダヤ人は“保護されつつ差別された”存在でした。
一部都市では居住を許される一方で、迫害や追放も繰り返されます。
また、魔女狩りや異端審問など、宗教的暴力も18世紀初頭まで残りました。
神聖ローマ帝国の宗教史は、政治と宗教が切っても切れない関係にあったことを物語っています。
最初はカトリック国家、やがて宗教改革で割れ、三十年戦争でボロボロになり、最後は「信じる自由」でバランスを取る――
この複雑な宗教の歩みこそ、神聖ローマ帝国が“宗教的ヨーロッパ”の縮図だった証なんですね。