
最後の晩餐(1547年)
ルターを含む宗教改革時代の人物たちが円卓に描かれている
出典:Lucas Cranach the Elder『Reformationsaltar, St. Marien zu Wittenberg, Mitteltafel』より/Wikimedia Commons Public Domainより
中世から近世にかけて、神聖ローマ帝国は政治だけでなく、信仰の問題によっても大きく揺さぶられました。ひとたび宗教が国家の根幹と結びつけば、それは単なる“心の問題”では済まされません。信仰の違いは、やがて権力の正当性を争う政治闘争へと発展し、帝国を真っ二つに裂いていったのです。
この記事では「宗教」というものがどんな意味を持ち、神聖ローマ帝国内でどんな宗派が存在し、どんな対立を生み出したのかを、わかりやすくかみ砕いて解説します。
まずはそもそも「宗教」とは何なのか、そして帝国におけるその位置づけから整理してみましょう。
宗教(Religion)とは、超越的な存在──神・天・自然など──との関係性を軸にして、人生や社会の意味を解釈し、ルールを与える精神と社会の枠組みです。教義・儀礼・聖職者・経典などを通じて、人々に“どう生きるか”を教えてきました。
つまり宗教とは、“個人の信仰”であると同時に、“集団の秩序”をつくる道具でもあったのです。
神聖ローマ帝国では、皇帝の正統性がキリスト教の権威に依存していたため、宗教は国家運営にとって欠かせない存在でした。皇帝が“神に選ばれた存在”であるためには、教会の支持が絶対に必要だったのです。
このため、宗教問題は常に政治問題と表裏一体でした。
では神聖ローマ帝国では、具体的にどんな宗教や宗派が勢力を持っていたのでしょうか。
中世を通じて帝国の“国教”だったのがローマ・カトリック教会。教皇を頂点とし、教義や儀式の統一、聖職者のヒエラルキーが整備されていたこの宗派は、皇帝とも強い結びつきを持っていました。
ただし、次第に教会の腐敗や形式化に対して民衆や知識人の不満がたまりはじめます。
1517年、マルティン・ルターが「95か条の論題」を発表すると、帝国内にプロテスタント(抗議者)が急増。特にドイツ北部や都市部でルター派が広がり、後にはカルヴァン派も加わっていきます。
この新宗派は聖書中心主義・信仰義認を掲げ、教皇の権威を否定したため、ローマ教会との全面対立が避けられませんでした。
帝国内には一部、ユダヤ人共同体も存在しており、商業・金融で重要な役割を果たしていました。ただし、制度的には差別され、排斥や迫害の対象になることも多かったです。
また、田舎や辺境部にはキリスト教に完全には取り込まれなかった民間信仰や異教的習俗も残っていました。
最後に、神聖ローマ帝国において宗教がどのように揺れ動き、国家の分裂や再編を引き起こしていったかを見ていきます。
中世初期、皇帝はローマ教皇から戴冠されることでその権威を得ていました。けれど11世紀には叙任権闘争が発生。皇帝と教皇が「誰が聖職者を任命するか」で争い、皇帝の権威が大きく揺らぎます。
この対立は帝国の統一を阻む火種となり、後の宗教戦争の伏線にもなっていくのです。
16世紀の宗教改革では、諸侯の多くがプロテスタントを支持し、自らの権力強化を図るようになります。皇帝(とカトリック勢力)はこれに反発し、シュマルカルデン戦争などの衝突が発生。信仰の違いが国家の分裂に直結する時代が到来します。
やがて1555年、アウクスブルクの宗教和議によって「領主の宗教が領民の宗教を決める(クイウス・レギオ、エイウス・レリギオ)」という原則が導入され、表面上の平和が訪れました。
ところが17世紀、ルター派とカルヴァン派、カトリックとの対立が再燃。三十年戦争(1618–1648)が勃発し、帝国は廃墟と化すほどの壊滅的被害を受けます。
戦後のヴェストファーレン条約では、宗教的寛容が制度として認められ、帝国は事実上の宗教的モザイク国家として再編されました。