
ブレーテンフェルトの戦い(1631年)
神聖ローマ帝国のカトリック軍がスウェーデン王グスタフ・アドルフ率いるプロテスタント軍に大敗した、三十年戦争の転機となる戦い
出典:Otto August Mankell『Battle of Breitenfeld 7.9.1631』/Wikimedia Commons CC‑BY 4.0より
神聖ローマ帝国って、なんだか「皇帝がいて、法があって、千年も続いたから安定してたんじゃない?」って思われがちなんですが──いやいや、実態はむしろ混乱の連続でした。
皇帝の権威はあってないようなもので、諸侯は勝手に争い始めるし、宗教や領土をめぐっての争いも絶えず、気がつけば「いつもどこかが揉めてる」のが当たり前だったんです。
この記事では、そんな神聖ローマ帝国で繰り返された主要な戦争や事件をまとめて紹介します。
帝国内の争いはまず、皇帝と諸侯の“せめぎ合い”から始まります。
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世が激突した宗教界最大のバトル。焦点は「誰が司教を任命できるか?」という問題。皇帝が教会人事に口出しするのを教皇が拒否して大激突。
皇帝が雪の中で謝罪する“カノッサの屈辱”は有名な場面ですね。結果的には皇帝の権威が大きく揺らぐことになりました。
この頃、帝国では有力貴族ヴェルフ家とシュタウフェン家(後のフリードリヒ1世バルバロッサらの家系)が皇位をめぐって対立。これが「皇帝位は一族のものではなく、諸侯の合意で決まる」という意識を強め、選帝侯制度への道を開いていきました。
帝国最大の混乱といえば、やっぱり宗教がらみの戦争です。
ルター派の諸侯たちが結成したシュマルカルデン同盟と、カトリック側の皇帝カール5世が激突。勝ったのは皇帝側だったものの、宗教対立の火種は消えず、のちの大戦争へつながっていきます。
もはや“帝国の崩壊ショー”といってもいいレベルの大惨事。ベーメン反乱をきっかけに始まったこの戦争は、プロテスタントとカトリックだけでなく、スウェーデン・フランス・スペインなど外国勢も参戦。
最終的にはヴェストファーレン条約によって講和が成立しましたが、帝国内の権力構造がズタズタになり、皇帝は“飾り”へと変わっていきました。
帝国は内輪揉めだけじゃありません。外からの侵攻にも常に晒されていたんです。
12世紀~13世紀、神聖ローマ皇帝たちは「ローマで戴冠されるぞ!」と意気込んでイタリアに遠征を繰り返します。ところが、北イタリアの都市(ミラノやヴェローナなど)は自由都市として皇帝支配に反発。
ロンバルディア同盟との激しい戦いを何度も繰り返し、皇帝のイタリア支配はうまくいかず…という展開に。
16~17世紀には、東から拡大してきたオスマン帝国とガチンコの戦争に。特に1683年のウィーン包囲戦では、首都が陥落寸前まで追い込まれました。
このときはポーランドの援軍によって何とかしのぎましたが、「帝国の防衛すら一枚岩ではできない」という事実が浮き彫りに。
近世に入ると、もはや内部統制も外敵対策も破綻寸前。
ナポレオンが主導して成立させた南ドイツの新たな同盟。ここに参加した諸侯たちは、事実上神聖ローマ帝国からの離脱を宣言したようなものでした。もはや皇帝に従う理由はなし。
1806年、ライン同盟の発足を受けてフランツ2世が皇帝の座を返上。「神聖ローマ帝国はこれをもって消滅する」と公式に宣言。
こうして、千年にわたる帝国は、実質“内部崩壊”で幕を閉じたのです。