
「95か条の論題」を提示するルター
マルティン・ルター(1483年~1546年)は、神聖ローマ帝国のヴィッテンベルクで「95か条の論題」を提示し、宗教改革の口火を切った
出典:Ferdinand Pauwels『Luther hammers his 95 theses to the door』/Wikimedia Commons Public Domainより
神聖ローマ帝国というと皇帝ばかりが注目されがちですが、実際の帝国は諸侯・聖職者・思想家・芸術家など、さまざまな立場の人物たちが入り乱れた“多様性の宝庫”でした。まさに「皇帝だけが主役じゃない!」と言いたくなるほど、個性豊かなプレイヤーたちが活躍していたんです。
この記事では、そんな神聖ローマ帝国で名を馳せた「皇帝以外の有名人」たちを、職種別にわかりやすく紹介していきます。
帝国では教会の力が絶大。神と民をつなぐ役割を担った宗教者たちの中にも、歴史に名を刻んだ人物がいました。
帝国史最大級の事件「宗教改革」の中心人物。ヴィッテンベルク大学教授だったルターは、贖宥状の販売に反発して95か条の論題を発表。その思想は瞬く間に広まり、帝国全体を揺るがす大騒動に。1521年のヴォルムス帝国議会では皇帝の前で信仰を貫き、「ここに立つ」と宣言したエピソードが有名です。
ルターと同時期に活躍した急進派宗教家で、民衆の直接行動と神の啓示による社会変革を説いた人物。1525年のドイツ農民戦争では指導的立場となり、農民軍の前線に立って戦いましたが、敗北し処刑されました。宗教と政治が一体化していた時代を象徴する人物です。
皇帝に並ぶ力を持った有力諸侯や、帝国軍を率いた軍人たちは、国際舞台でも重要な役割を担っていました。
三十年戦争期の傭兵将軍。皇帝フェルディナント2世のもとで巨大な私兵軍を率いて戦功を重ねました。敵味方から一目置かれる存在だった一方、野心と影響力を警戒され、最終的には暗殺されてしまいます。
プファルツ選帝侯でありながら、1619年にボヘミア王に選出され、皇帝に反旗を翻しました。その結果、戦争の引き金となり「冬の王」とあだ名される短命政権に。彼の行動が三十年戦争の引き金になったことから、象徴的存在として語り継がれています。
帝国内の大学や修道院では、神学・法学・自然科学が発展し、後のヨーロッパ思想にも大きな影響を与えました。
哲学者・数学者として知られる汎才の天才。微積分をニュートンと同時に発見し、また「最善世界説」などの形而上学でも注目されました。帝国の顧問官としても活動し、政治や外交にも影響力を持ちました。
ルターの片腕ともいえる人文主義者であり、プロテスタント教育制度の整備者。ヴィッテンベルク大学で教え、信仰と学問の調和を重視した教育を展開しました。「ドイツの教師(Praeceptor Germaniae)」と称されることも。
神聖ローマ帝国は音楽や建築、絵画の分野でもヨーロッパ文化の発信地でした。
ニュルンベルク出身のルネサンス画家・版画家。イタリアの技術とドイツの写実性を融合させたスタイルで知られ、『四人の使徒』や精緻な銅版画などが有名です。宗教改革との接点もあり、思想的にも時代を反映した存在でした。
ドイツ・バロック音楽の父と呼ばれる作曲家。イタリア音楽の様式を取り入れつつ、ドイツ語による壮大な宗教作品を多数残しました。三十年戦争という苦難の時代にありながら、精神性に満ちた音楽で多くの人々を励ましました。